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Miyachann (会話 | 投稿記録)
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==胡耀邦と日中関係==
[[1983年]]11月の訪日では[[昭和天皇]]と会見して天皇訪中を要請(当時交渉を担当したのは[[胡錦濤]]<ref>{{cite news |title=中国には意味のあった訪日・チベット対話 |publisher=[[日経BP]] |date=2008-06-04 |url=http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/134/index1.html |accessdate=2017-05-07}}</ref>)、日中首脳会談では[[中曽根康弘]][[内閣総理大臣]]が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『[[日中友好二一世紀委員会]]』の設立を提案し、胡はこれに賛同した<ref name="mouri111">毛利(2006年)111ページ</ref>。他方胡は、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせた<ref name="mouri111"/>。この『ニ一世紀委員会』は1984年に発足し、いわば「第2トラック」として日中間の問題の調整を行ってきた<ref name="mouri111"/>。また青年交流では、1986年に中曽根首相が訪中した際、中国人青年を毎年500人ずつ招待することを提案し、胡耀邦プランに応えた<ref name="mouri111"/>。胡耀邦時代は、日中国交正常化後、日中関係が最も良好な時期だった<ref name="mouri112">毛利(2006年)112ページ</ref>。胡耀邦の親日政策が一つの要素だったと考えられる。胡は1985年の靖国参拝問題でもかなり柔軟に対応し、1986年の第2次教科書問題でも抑制した態度をとった<ref name="mouri112"/>。日本の軍事力増強についても歓迎すらしていた<ref>{{cite news |last= |first=Joe |title=中国 日本の自衛力増強に理解 83年の首脳会談で |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |date=2017-01-12 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170112/k10010836861000.html |accessdate=2017-01-15}}</ref>。だが、これらの「対日接近」が、後の胡の「辞任」の引き金の一つになったと言われる<ref name="mouri112"/>。
 
==失脚==