「甘粕正彦」の版間の差分

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===満洲国へ===
[[1926年]](大正15年)10月に[[仮出獄]]し[[予備役]]となり、る。<br>
[[1927年]](昭和2年)7月から陸軍の予算で[[フランス]]に留学する。{{要出典範囲|フランスでは画家の[[藤田嗣治]]等と交流があったと言われる|date=2015年9月}}他、フランス陸軍大学に留学していた[[澄田らい四郎|澄田𧶛四郎]]とも交流していた。<br>
[[1930年]](昭和5年)、フランスから帰国後、すぐに満州に渡り、[[南満州鉄道]][[東亜経済調査局]]奉天主任となり、さらに[[奉天]]の関東軍[[特務機関]]長[[土肥原賢二]]大佐の指揮下で情報・謀略工作を行うようになる。[[大川周明]]を通じて後に[[柳条湖事件]]や[[自治指導部]]などで満州国建国に重要な役割を果たす[[右翼団体]][[大雄峯会]]に入る。そのメンバーの一部を子分にして[[甘粕機関]]という民間の特務機関を設立。また満州の国策である[[阿片]]ビジネスでリーダーシップを取った。<br>
 
[[1931年]](昭和6年)9月、[[柳条湖事件]]より始まる[[満州事変]]の際、[[ハルピン]]出兵の口実作りのため奉天に潜入し、中国人の仕業に見せかけて数箇所に爆弾を投げ込んだ。<br>
[[1930年]](昭和5年)、フランスから帰国後、すぐに満州に渡り、[[南満州鉄道]][[東亜経済調査局]]奉天主任となり、さらに[[奉天]]の関東軍[[特務機関]]長[[土肥原賢二]]大佐の指揮下で情報・謀略工作を行うようになる。[[大川周明]]を通じて後に[[柳条湖事件]]や[[自治指導部]]などで満州国建国に重要な役割を果たす[[右翼団体]][[大雄峯会]]に入る。そのメンバーの一部を子分にして[[甘粕機関]]という民間の特務機関を設立。また満州の国策である[[阿片]]ビジネスでリーダーシップを取った。
[[1931年]](昭和6年)9月の[[柳条湖事件]]より始まる[[満州事変]]の際、[[ハルピン]]出兵の口実作りのため奉天に潜入し、中国人の仕業に見せかけて数箇所に爆弾を投げ込んだ。その後、[[清朝]]の第12代[[皇帝]][[宣統帝]]の[[愛新覚羅溥儀]]([[1924年]](大正13年)に[[馮玉祥]]が起こした[[クーデター]]により[[紫禁城]]を追われ、[[1925年]](大正14年)以降に[[天津市|天津]]に幽閉されていた)擁立のため、溥儀を天津から[[湯崗子]]まで洗濯物に化けさせて[[柳行李]]に詰め込んだり、[[苦力]]に変装させ硬席車([[三等車]])に押し込んで極秘裏に連行した。その他、満州事変に関する様々な謀略に荷担した。<br>
 
[[1932年]](昭和7年)、満州国建国後はその働きを認められ、[[満州国の警察|民政部警務司長]](警察庁長官に相当)に大抜擢され、表舞台に登場する。自治指導部から分かれた満州唯一の合法的政治団体[[満州国協和会]]が創設されると理事になる。<br>
[[1931年]](昭和6年)9月の[[柳条湖事件]]より始まる[[満州事変]]の際、[[ハルピン]]出兵の口実作りのため奉天に潜入し、中国人の仕業に見せかけて数箇所に爆弾を投げ込んだ。その後、[[清朝]]の第12代[[皇帝]][[宣統帝]]の[[愛新覚羅溥儀]]([[1924年]](大正13年)に[[馮玉祥]]が起こした[[クーデター]]により[[紫禁城]]を追われ、[[1925年]](大正14年)以降に[[天津市|天津]]に幽閉されていた)擁立のため、溥儀を天津から[[湯崗子]]まで洗濯物に化けさせて[[柳行李]]に詰め込んだり、[[苦力]]に変装させ硬席車([[三等車]])に押し込んで極秘裏に連行した。その他、満州事変に関する様々な謀略に荷担した。
[[1937年]](昭和12年)には中央本部総務部長に就任。<br>
 
その働きを認められ[[1932年]](昭和7年)の満州国建国後は、[[満州国の警察|民政部警務司長]](警察庁長官に相当)に大抜擢され、表舞台に登場する。自治指導部から分かれた満州唯一の合法的政治団体[[満州国協和会]]が創設されると理事になり、[[1937年]](昭和12年)には中央本部総務部長に就任。[[1938年]](昭和13年)、満州国代表団(修好経済使節団)の副代表として公式訪欧し、[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]とも会談。
 
===満映理事長===