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{{See also|九州平定 (日本史)#島津氏の九州平定事業}}
[[ファイル:Portrait of Otomo Sorin.jpg|180px|right|thumb|秀吉に助けを求めた<br>[[大友義鎮|大友宗麟]]]]
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後半の[[九州]]は、盛強な[[戦国大名]]三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある<ref name=owada06>[[#小和田1|小和田(2006)pp.187-214]]</ref>。そのなかから、[[薩摩国|薩摩]]の島津氏が[[日向国|日向]]の[[伊東氏]]、[[肥後国|肥後]]の[[相良氏]]、[[阿蘇氏]]、[[肥前国|肥前]]の[[肥前有馬氏|有馬氏]]、[[龍造寺氏]]などを下し、さらに大友氏の重鎮[[立花道雪]]の死により大友氏の支配がゆるんだ[[筑後国|筑後]]の[[国人]]衆も傘下に収め、[[北九州]]への影響力も強めて、'''九州平定'''をほぼ目前にしていた<ref>[[#熱田|熱田(1992)p.243]]</ref>。[[豊後国|豊後]]の[[大友義鎮|大友宗麟]](義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時[[近畿|畿内近国]]、[[北陸道|北陸]]、[[山陽道|山陽]]、[[山陰道|山陰]]、[[四国]]を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。
 
これを受け、関白となった秀吉は、[[天正]]13年([[1585年]])10月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した([[惣無事令|九州停戦令]])。しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣[[鎌田政近]]を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前[[織田信長]]と[[近衛前久]]の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた<ref name=ike62>[[#池2|池(2003)pp.62-65]]</ref>。この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している<ref>[[#藤木2|藤木 (1985)]]</ref>。