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{{Pathnav|第二次世界大戦|ノルマンディー上陸作戦|frame=1}}
{{Battlebox
|battle_name=パリの解放 <br/> Libération de Paris
|campaign=ノルマンディー上陸作戦
|colour_scheme=background:#fca
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|place={{FRA}} [[パリ]]
|result=連合軍の勝利
|combatant1=[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[自由フランス軍]]<br />[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[:en:French Forces of the Interior|フランス国内軍]]<br />{{USA1912}}<br />{{Flagicon|ESP1931}} [[スペイン第二共和政|スペイン共和国]]亡命者部隊
|combatant2={{DEU1935}}<br />[[ファイル:Flag of the collaborationist French Militia.svg|border|20px]] [[フランス民兵団]]
|commander1=[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[フィリップ・ルクレール]]<br />[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[:fr:Henri Rol-Tanguy|アンリ・ロル=タンギー]]<br />[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[ジャック・シャバン=デルマス]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[:en:Leonard T. Gerow|レナード・T・ジロー]]
|commander2={{Flagicon|DEU1935}} [[ディートリヒ・フォン・コルティッツ]][[File:White flag icon.svg|15px|降伏]]
|strength1=[[第2機甲旅団 (フランス陸軍)|フランス第2機甲師団]]<br />[[アメリカ陸軍]][[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]][[第5軍団 (アメリカ軍)|第5軍団]]<br />フランス国内軍
|strength2=[[ドイツ国防軍]]{{仮リンク|第325保安師団 (ドイツ国防軍)|en|325th Security Division (Wehrmacht)|label=第325保安師団}}など
|strength2=[[パリ防衛司令部]]他
|casualties1=戦死 1,630<ref>[http://gaminsdulux.fr/ce2cm1/histoire/lib-paris.pdf Liberation de Paris]</ref>
|casualties2=戦死 3,200 捕虜 12,800<ref>[http://gaminsdulux.fr/ce2cm1/histoire/lib-paris.pdf Liberation de Paris]</ref>
}}
[[第二次世界大戦]]における'''パリの解放'''(パリのかいほう、{{lang-fr-short|Libération de Paris}})とは、[[1944年]][[8月19日]]から[[8月25日]]に行われた戦いである。[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]と[[フランス]]の歴史における大きな節目であった。
 
== 背景 ==
1944年6月6日に[[ノルマンディー上陸作戦]]が行われて以降、占領者である[[ドイツ軍]]とその傀儡・[[ヴィシー政権]]に対する「フランス国」国内の[[レジスタンス運動]]の動きはさらに活発化した。北アフリカの[[アルジェ]]に位置する[[フランス共和国臨時政府]]は、独自の軍隊である[[{{仮リンク|フランス解放軍]]|fr|Armée française de la Libération}}[[:{{lang|fr:|Armée française de la Libération]]}})<ref group="注釈">1943年8月1日に[[自由フランス軍]]と北アフリカのヴィシー政権軍が合併している。</ref>及びレジスタンスの統合組織[[全国抵抗評議会]](CNR)({{lang|fr|Conseil National de la Resistance}} CNR)とその傘下の[[{{仮リンク|フランス国内軍]](FFI、[[:|en:|French Forces of the Interior}}({{lang|en]])fr|Forces Françaises de l'Intérieur}} FFI)を支配下に置いていた。しかしCNR全国抵抗評議会は右派から左派までの寄り合い所帯であり、一枚岩の組織ではなかった。
 
臨時政府の代表であった[[シャルル・ド・ゴール]]は、戦後における自らの影響力を確保するためには臨時政府による早期の[[パリ]]解放が不可欠であると考えており、CNR全国抵抗評議会に参加している左派勢力主導の解放は望んでいなかった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、262p</ref>。ド・ゴールは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍ヨーロッパ戦域最高司令官[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大将にパリ攻略を急ぐよう何度も要請したが、アイゼンハワーの司令部はドイツ軍の抵抗が強固であると予想されること、占領した際のパリを給養する物資が膨大なものになると予想されること、ヴィシー政府の退陣を待ってフランス国民が臨時政府を受け入れる用意が出来るのが望ましいことなどを理由に、パリを一部部隊で包囲するにとどめる計画であった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、262-263p</ref>。8月19日にはアメリカ軍[[第3軍 (アメリカ軍)|第3軍]]{{仮リンク|第15軍団 (アメリカ陸軍)|en|XV Corps (United States)|label=第15軍団}}{{仮リンク|第79歩兵師団 (アメリカ軍)|en|79th Infantry Division (United States)|label=第79師団}}が[[セーヌ川]]のほとりにある[[イヴリーヌ県]][[マント=ラ=ジョリー]]に到着した。
 
ドイツ側では[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]は「パリの失陥はフランスの失陥であり、ドイツの敗勢の象徴とみなされる」とし<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、260p</ref>、8月7日に[[ディートリヒ・フォン・コルティッツ]]歩兵大将をパリ防衛司令官に任命した。8月11日にはパリに架かる橋をすべて爆破した上で、最後の一兵まで戦うよう命令を出したが、コルティッツ大将は市内での防衛が無意味であり、パリ外周での防衛に留めるべきと考えた。当時の上官である[[{{仮リンク|西方軍集団]]|en|OB West}}[[ギュンター・フォン・クルーゲ]]元帥もこれを承認した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、260-261p</ref>。
 
==経緯==
===パリのレジスタンス蜂起===
[[File:USA-E-Supreme-3.jpg|thumb|250px|1944年7月25日から8月25日までのアメリカ軍の進軍図]]
一方パリでは[[8月15日]]、[[パリ地下鉄]]、[[フランス国家憲兵隊]]、[[フランスの警察|警察]]が、翌16日には郵便局員が[[ストライキ]]に入った。[[8月18日]]には[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]がパリ全域の労働者に広がった。8月19日午前7時、パリ市内のレジスタンスが蜂起を開始した。蜂起を主導したのはFFIフランス国内軍であり、総兵力は2万人であったが、装備は劣悪であった。対するパリ防衛司令官コルティッツ大将率いるドイツ軍も2万人の兵力を持っていたが、兵員の大半はパリ市外に出ており、市内にいるのは5~6千人であった<ref name="kojima259">児島「ヒトラーの戦い」、259p</ref>。レジスタンスは12の区役所、郵便局などの施設を占拠して[[フランスの国旗|三色旗]]を掲げ、[[シテ島]]の[[パリ警視庁]]本部では警察官が蜂起してこれに応えた<ref group="注釈">パリ警視庁はこの功績により同年10月12日に[[レジオンドヌール勲章]]に叙されている</ref>が、午後になると装備に優れたドイツ軍の攻勢が開始され、レジスタンスの拠点は徐々に孤立していった。
 
コルティッツ大将は翌日の日の出30分後に鎮圧しようとしていたが、午後7時に中立国[[スウェーデン]]の[[{{仮リンク|ラウル・ノルドリンク]]([[:|en:|Raoul Nordling]]}}({{lang|sv|Raoul Nordling}})[[総領事]]が死傷者収容のための休戦を提案した。コルティッツ大将はFFIフランス国内軍らレジスタンスは「暴徒」であって休戦の対象となる「[[交戦団体]]」ではないとしたが、戦闘を停止してFFIフランス国内軍兵士交戦団体扱いし一部管轄地域を渡すという「諒解」に合意した。休戦期間は当初1時間とされたが、夜には無期限へと変更された<ref name="kojima259"/>。コルティッツ大将はレジスタンスに内部対立があることを知っており、休戦期間を設ければレジスタンスの団結が瓦解すると考えていた<ref>児島「ヒトラーの戦い」、261p</ref>。
 
FFIフランス国内軍も休戦に合意したが、翌8月20日午後には一部の兵士がゲリラ的戦闘を再開した。コルティッツ大将はノルドリンク総領事を通じて「攻撃を停止しなければ、パリを空襲し、本職に与えられたパリ破壊命令を最大限に実行する用意がある」と警告した<ref>児島「ヒトラーの戦い」、264p</ref>。ヒトラーもパリの被害を考慮せず、市の内外で戦うべきであると西方軍集団司令官[[ヴァルター・モーデル]]元帥に命令した。FFIフランス国内軍は連合軍の早期到着が必要であると考え、ガロワ少佐とノルドリンクの弟ロルフを中心とする2つの連絡班をアメリカ軍前線に派遣した。
 
その間に連合軍はパリ周辺の攻略を行い、8月21日にはパリ南方にある{{仮リンク|ルビーエ|en|Rubelles}}、[[ムラン]]、{{仮リンク|モントロー=シュル=ル=ジャルド|en|Montereau-sur-le-Jard}}い、最終的にパリ東方にある{{仮リンク|サン (セーヌ=エ=マルヌ県)|en|Saints, Seine-et-Marne|label=サン}}を占領した。そのためモーデル元帥はパリ防衛が不可能であると考え、パリの東と北で防衛する計画を具申した。しかしヒトラーはこれを退け、パリの東ではなくパリで防戦するよう命令した<ref>児島「ヒトラーの戦い」、265p</ref>。
 
=== 連合軍のパリ進軍決定 ===
ド・ゴールは8月20日に[[アルジェ]]を発って[[ノルマンディー]]に到着し、アイゼンハワー大将に臨時政府指揮下にある[[第2機甲旅団 (フランス陸軍)|フランス第2機甲師団]]をパリに進軍させるよう要請した。アイゼンハワーは要請を受け入れたものの、時期については明言しなかった。8月21日にド・ゴールはアイゼンハワーに書簡を送り、連合軍のパリ派兵がなければ臨時政府の権限で第2機甲師団をパリに向かわせると声明した。さらに第2機甲師団の[[フィリップ・ルクレール]]少将は独断でパリ派兵を決断し、アメリカ軍には秘密で準備を開始した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、266p</ref>。
 
翌8月22日、FFIフランス国内軍が派遣したガロワ少佐の連絡隊が[[オマール・ブラッドレー]]大将がいる{{仮リンク|第12軍集団|en|Twelfth United States Army Group}}司令部に到着し、次の内容を告げた。
*パリの大部分とすべての橋はFFIフランス国内軍の支配下にある
*パリ防衛ドイツ軍の主力は退却した
*ドイツ軍が休戦に応じたのは退却のため
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=== パリ進軍開始 ===
第5軍団司令官[[:en:Leonard T. Gerow{{仮リンク|レナード・T・ジロー]]|en|Leonard T. Gerow}}少将はパリ進撃部隊を二つに分けた。
;北方部隊進撃経路([[アルジャンタン]]東部{{仮リンク|セー (フランス)|en|Sai, Orne|label=セー}}→[[ランブイエ]]→[[ヴェルサイユ]])
*第2機甲師団主力、第38騎兵中隊の一部、工兵部隊、第76野砲旅団
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パリ入城はあくまで第2機甲師団が先に行うことになっていたが、アメリカの貢献も示すために第38騎兵中隊も同行することとなった。両軍は最終目的地で一旦停止し、ドイツ軍の抵抗が軽微である場合のみにパリ市内に入ることと決められた<ref name="kojima271"/>。軍の出発は当初8月22日中に行われる予定であったが、第2機甲師団の集結準備に手間取り、8月23日午前6時30分に進軍が開始された。両軍の進軍はいたってスムーズであり、フランス人による熱狂的な歓迎を受けるのみであった<ref name="kojima272">児島、「ヒトラーの戦い」、272p</ref>。北方部隊の目的地への到着予定時刻は24日午前5時10分、南方部隊は23日午後8時55分であった<ref name="kojima275">児島、「ヒトラーの戦い」、275p</ref>。
 
一方パリではFFIフランス国内軍と防衛軍による散発的な戦闘が続いていたが、おおむね休戦は維持されていた。しかし午前11時、コルティッツ大将のもとにヒトラーからパリの防衛、暴動鎮圧を命じた上で「パリは、廃墟以外の姿で敵に渡すべきではない」といういわゆる「パリ廃墟命令」が到着した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、272-273p</ref>。コルティッツはモーデル元帥に命令遂行が不可能であると上申したが、モーデルは総統命令は一部でも実行しなければならないと命令した。同日正午すぎ、[[英国放送協会|BBC]]で「パリ解放」の臨時ニュースが流れた。間もなく誤報であると訂正されたが、これは連合軍の進軍を督促するためのFFIフランス国内軍ロンドン本部による工作であった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、274p</ref>。
 
=== パリ攻略の障害 ===
[[File:UStankParis-edit1.jpg|thumb|250px|凱旋門前に進出したアメリカ軍の[[M8装甲車]]]]
しかしその頃、北方部隊の進軍はフランス人や新聞記者の歓迎で遅れ、ヴェルサイユの到着予定の23日午後8時55分にランブイエ到着がやっとであると連絡が入った<ref name="kojima275"/>。北方部隊の到着と同じ頃ド・ゴールもランブイエに入り、ルクレール少将と今後の進軍計画について会談した。ルクレールは独自の偵察からヴェルサイユに向かうより[[{{仮リンク|リムール]]|en|Limours}}の東[[{{仮リンク|アルバジャン]]|en|Arpajon}}に向かったほうがパリに向かいやすいと命令を無視する意向を伝え、ド・ゴールもその方針を支持した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、276p</ref>。しかしこのルートは南方部隊の進軍経路を横断する形となっており、8月24日の午前7時頃には南方部隊と交錯して大渋滞を来した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、277p</ref>。しかもその上ルクレール部隊が向かったアルバジャンとパリの間にはドイツ軍の強固な防衛陣地があり、ったため激しい抵抗を受けた。そのため第2機甲師団がパリ進軍期間に出した損害の大半はこの日のものであった。またフランス人による激しい歓迎もわらず、この日の進軍は北方部隊に属する第2機甲師団主力が15[[マイル]]、南方部隊に属する第2機甲師団の一部が12マイルとはなはだ短いものであったが、南方部隊側はパリまで3マイルに迫っていた<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、278p</ref>。ジロー少将はルクレールにやる気がないと判断し、第4歩兵師団のパリ入城許可を要請し、了承された。しかしルクレールはその間に戦車三輌3輛、装甲軌道車5からなるパリ突入部隊を派遣していた。突入部隊はパリ南部の{{仮リンク|イタリア門|en|Porte d'Italie}}{{仮リンク|オルレアン門|en|Porte d'Orléans}}の間からパリに入城し、午後11時55分に[[パリ市庁舎]]前に到着した。ラジオはルクレール師団の入城を伝え、[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]の鐘が打ち鳴らされた。しかしパリ市内のドイツ軍は健在であり、外周防備部隊も帰還してきていた。そのため街頭に出ていた市民は再度逼塞することになった。
 
=== パリ防衛軍の降伏===
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1971-041-10, Paris, der Kollaboration beschuldigte Französinnen.jpg|thumb|250px|頭を刈られ引き回される親ドイツの女性達]]
[[File:German officer POWs in Paris HD-SN-99-02952.JPG|thumb|250px|捕虜となったドイツ軍将校]]
8月25日午前0時、アメリカ軍[[第4歩兵師団 (アメリカ軍)|第4歩兵師団]]司令官[[{{仮リンク|レイモンド・バートン]]|en|Raymond O. Barton}}[[:{{lang|en:|Raymond O. Barton|en]]}})少将は{{仮リンク|第12歩兵連隊 (アメリカ軍)|en|12th Infantry Regiment (United States)|label=第12歩兵連隊}}にパリ進出命令を出した。ルクレール少将も第2機甲師団の本隊を三つに分けて市内に突入させた。各部隊はドイツ軍の抵抗と、市民の激しい歓迎にあいながらも、午前11時30分にはアメリカ軍第12歩兵連隊がパリ南東部を占拠し、フランス部隊も[[シャルル・ド・ゴール広場|エトワール広場]]、[[ブルボン宮殿]]に到着した。フランス部隊のうち右翼を進んでいた一隊はドイツ軍の司令部がある[[{{仮リンク|ル・ムーリス|en|Le Meurice|label=オテル・ムーリス]]}}([[:en:{{lang|fr|Hôtel Meurice]]}})近くに進出し、コルティッツ大将に降伏勧告を行ったが、この時点では受け入れられなかった。
 
正午、[[エッフェル塔]]の頂上にシーツで作った三色旗が掲げられた。この旗を掲げたのは1940年6月30日の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|パリ陥落]]の日に、[[ハーケンクロイツ]]旗を掲げるため、三色旗をおろすことを命じられた消防士であった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、285p</ref>。同時刻、フランス国内部隊200人がオテル・ムーリスの攻撃を始め、コルティッツ大将も降伏を覚悟し始めた。しかしコルティッツ大将は正規軍である連合軍に降伏することはあっても、FFIフランス国内軍に降伏することはできないと考えていた<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、286-287p</ref>。午後1時、パリの状況にいらだったヒトラーはパリ廃墟命令が実施されているか、[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|最高司令部]]作戦部長[[アルフレート・ヨードル]]大将に質問した上で、「Brennt Paris?(パリは燃えているか?)」と3回にわたって叫び、長距離砲や[[V1飛行爆弾]]、[[空襲]]などあらゆる手段でパリを灰にするよう命じた<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、287-288p</ref>が、結局外部からの焦土作戦は実行されなかった。
 
午後1時10分、オテル・ムーリスの玄関にフランス軍の{{仮リンク|アンリ・カルシェ(Henri|fr|Henri Karcher)Karcher (homme politique, 1908-1983)}}({{lang|fr|Henri Karcher}})中尉ら4人が乗り込んできた。正規軍と遭遇したコルティッツはこれを降伏の機会と考え、[[参謀]]を通じてカルシェ中尉に自分の部屋に来るよう伝えた。カルシェ中尉は司令官室に乗り込むと緊張のあまり「ドイツ語を話せるか?」とドイツ語で叫んだ。「貴官よりいくらか上手だと思う」と答えたコルティッツは降伏する旨を伝え、司令部員は武装解除した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、288-289p</ref>。コルティッツらはルクレールが司令部を置いた[[パリ警視庁]]運ば護送され、降伏文書を提示された。しかしその文書にあったルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官・第2機甲師団長」であり、「連合国軍」ではなかった。するとその部屋にFFIフランス国内軍[[イル=ド=フランス地域圏]]隊長の[[{{仮リンク|アンリ・ロル=タンギー]]([[:fr:|en|Henri Rol-Tanguy}}({{lang|fr]]|Henri Rol-Tanguy}})大佐(通称ロル大佐)とFFIフランス国内軍に属する{{仮リンク|軍事行動委員会([[: (フランス国内軍)|fr:|COMAC (Résistance)|COMAC]])label=軍事行動委員会}}(COMAC)共産党代表[[{{仮リンク|モーリス・クリーゲル=ヴァリモン]]([[:fr:|en|Maurice Kriegel-Valrimont}}({{lang|fr]]|Maurice Kriegel-Valrimont}})が入室し、ロル大佐にも降伏文書調印資格があると主張し、ルクレールと交渉し始めた。ルクレールと二人の交渉はしばらく続いたが、結局ロル大佐の調印参加が認められ、午後3時30分に降伏文書は調印された<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、289-291p</ref>。コルティッツが降伏命令を各部隊に発出したことで、パリ市内のドイツ軍部隊は午後7時35分までにはほとんど降伏し、[[ブローニュの森]]にいる2600人の部隊を残すのみとなった。
 
ドイツ軍降伏を知ったパリ市民は占領期間の有力者や[[フランス民兵団]]やヴィシー政府やドイツへの「[[コラボラシオン]](協力者)」狩りに乗りだし、次々に処刑・殺害を行っていった。またドイツ軍兵士の愛人であったりするなど、[[ナチス・ドイツ]]に近しいと見られたフランス人女性は、髪の毛を丸刈りする[[スキンヘッド]]、裸にハーケンクロイツを書かれる等の[[私刑]]を受けてさらし者にされた<ref group="注釈">被害に遭った女性のすべてがドイツ人と性的関係を持っていたわけではない(平稲晶子「丸刈りにされた女たち」『ヨーロッパ研究』No.8、東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究センター、2009年、pp.25 - 41[http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_8_Hirase.pdf])。</ref>。誤認されて被害に遭う市民も多数おり、争乱はしばらく治まらなかった。
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[[8月26日]]には[[シャンゼリゼ通り]]で第2機甲師団を中心とするパレードが行われた。しかし市内になおドイツ軍の狙撃兵が残っており、時折銃弾が飛来して市民が慌てて地面に伏せるような事態も発生した。
 
[[8月29日|29日]]には、[[アメリカ陸軍{{仮リンク|第28歩兵師団 (アメリカ軍)|en|28th Infantry Division (United States)|label=第28歩兵師団]]}}によるパレードが行われた。この時には都市は既に安全な状態となっていた。アメリカ軍と[[自由フランス軍]]の車両がパリの道路を進むと、喜びに満ちた群集が彼らを歓迎した。以後、毎年8月25日にはパリ解放を記念する式典が開かれる。[[2004年]]の60周年記念式典では、オテル・ド・ヴィルの外で音楽に合わせて道で踊る人々の間を、当時のフランス軍とアメリカ軍を表す2種類の装甲車両による軍事パレードが行なわれた。
 
== 参考文献 ==
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{{Reflist}}
 
== 関項目 ==
* [[全国抵抗評議会]](CNR)- レジスタンスの全国組織。
* [[パリは燃えているか]] - [[1966年]]の映画。コルティッツがパリを守るために降伏したとされている。
* [[エピュラシオン]] ([[:fr:Épuration à la Libération en France]])-フランス解放時に起きた「[[粛清]]」
* [[ファレーズ・ポケット]] - 連合軍が直前まで行っていた軍事作戦。ドイツ軍は膨大な被害を受けた。
* [[コール オブ デューティ ワールドウォーII]] - [[2017年]]の[[ファーストパーソン・シューティングゲーム]]ソフト。
 
== 外部リンク ==