「ゲオルク5世 (ハノーファー王)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[Image:König Georg V. von Hannover und Marie von Sachsen-Altenburg (1818–1907) mit ihren drei Kindern.jpg|thumb|ゲオルク5世とマリー王妃・家族]]
| 人名 = ゲオルク5世
'''ゲオルク5世'''('''Georg V.''' ゲオルク・フリードリヒ・アレクサンダー・カール・エルンスト・アウグスト(Georg Friedrich Alexander Karl Ernst August),[[1819年]][[3月27日]] - [[1878年]][[6月12日]])は、最後の[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|王]](在位:[[1851年]] - [[1866年]])。[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]](ハノーファー王ゲオルク3世)の孫であり、イギリス王族として[[カンバーランド公]]の爵位も継承している。英語名は'''ジョージ'''('''George''')。ハノーファー王兼カンバーランド公[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト(アーネスト・オーガスタス)]]と[[メクレンブルク=シュトレーリッツ]]大公女[[フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|フリーデリケ]]の長男である。幼少期に病気や事故が重なり、視力を失った。
| 各国語表記 = Georg V.
| 君主号 = [[ハノーファー君主一覧|ハノーファー国王]]
[[Image:| 画像 = König Georg V. von Hannover und Marie von Sachsen-Altenburg (1818–1907) mit ihren drei Kindern.jpg|thumb|ゲオルク5世とマリー王妃・家族]]
| 画像サイズ =
| 画像説明 = ゲオルク5世とマリー王妃・家族
| 在位 = [[1851年]] - [[1866年]]
| 戴冠日 =
| 別号 = [[カンバーランド公]]
| 全名 = ゲオルク・フリードリヒ・アレクサンダー・カール・エルンスト・アウグスト<br/>{{Lang-de|Georg Friedrich Alexander Karl Ernst August}}
| 出生日 = [[1819年]][[5月27日]]
| 生地 = {{PRU1803}}、[[ベルリン]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1819|5|27|1878|6|12}}
| 没地 = {{FRA1870}}、[[パリ]]
| 埋葬日 =  
| 埋葬地 = {{GER}}、[[ウィンザー城]]、聖ジョージ礼拝堂
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[マリー・フォン・ザクセン=アルテンブルク (1818-1907)|マリー・フォン・ザクセン=アルテンブルク]]
| 配偶者2 =
| 子女 = [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王太子)|エルンスト・アウグスト]]<br>[[フリーデリケ・フォン・ハノーファー (1848-1926)|フリーデリケ]]<br>[[マリー・フォン・ハノーファー (1849-1904)|マリー]]
| 王家 =
| 王朝 = [[ハノーヴァー朝|ハノーファー家]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト(アーネスト・オーガスタス)]]
| 母親 = [[フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ]]
| 宗教 = [[キリスト教]][[イングランド国教会]]
| サイン =
}}
'''ゲオルク5世'''('''Georg V.''' ゲオルク・フリードリヒ・アレクサンダー・カール・エルンスト・アウグスト(Georg Friedrich Alexander Karl Ernst August),[[1819年]][[35月27日]] - [[1878年]][[6月12日]])は、最後の[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|王]](在位:[[1851年]] - [[1866年]])。[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]](ハノーファー王ゲオルク3世)の孫であり、イギリス王族として[[カンバーランド公]]の爵位も継承している。英語名は'''ジョージ'''('''George''')。ハノーファー王兼カンバーランド公[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト(アーネスト・オーガスタス)]]と[[メクレンブルク=シュトレーリッツ]]大公女[[フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|フリーデリケ]]の長男である。幼少期に病気や事故が重なり、視力を失った
 
== 生涯 ==
ハノーファー王兼カンバーランド公[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト(アーネスト・オーガスタス)]]と[[メクレンブルク=シュトレーリッツ]]大公女[[フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|フリーデリケ]]の長男である。幼少期に病気や事故が重なり、視力を失った。
 
[[1866年]]に起こった[[普墺戦争]]で、[[ハノーファー王国]]は[[オーストリア帝国|オーストリア]]側に就いた。ハノーファーは[[プロイセン王国|プロイセン]]軍に占領され、1866年6月29日にハノーファー軍は降伏した。王と家族はオーストリアへ逃れた。プロイセン政府は9月にハノーファーを正式に併合したが、ゲオルク5世は権利を放棄せず、併合も認めなかった。亡命地であるオーストリアの[[グムンデン]]からヨーロッパの列強にハノーファー問題への介入を要請したが叶わなかった。なお、1869年にドイツ=ハノーファー党({{enlink|German-Hanoverian Party|Deutsch-Hannoversche Partei|p=off|s=off}}, 現[[ドイツ党]])が、この併合に対する抗議のため結成された。