「本願寺の歴史」の版間の差分

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[[元弘]]元年(1331年)、覚如は『[[口伝鈔]]』を著し、「三代伝持の血脈(けちみゃく)」を表明し、法灯継承を主張する(法脈…法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如、血統…親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)。自らを、「本願寺第三世」とし、親鸞を「宗祖」(「開祖」)、如信を「本願寺第二世」に定める。
{{indent|しかし現実問題として、長年培ってきた経済力、場合によっては軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院に対抗して京都の中で独自の教団を打ち立てる事は困難であった。正和以後も[[元徳]]2年(1330年)・[[観応]]3年(1352年)・[[嘉慶_(日本)|嘉慶]]2年(1388年)にも弾圧を受けており、浄土真宗の他派が東国などで勢力を広めている間にも、逆に本願寺のみは衰退して延暦寺の支配下にあった[[青蓮院]]の末寺として延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されているという状況であった。ただし、こうした通説に対して、太田壮一郎は親鸞が青蓮院で九条家出身の青蓮院門跡[[慈円]]の下で出家した縁で当初は一条家(九条家の支流)および青蓮院とつながりが深い[[妙香院]]門跡の候人となったこと、妙香院が15世紀(本願寺では蓮如の継承前後)に衰退して青蓮院に吸収されたために青蓮院の傘下に移ったこと、候人は門跡に近侍・奉公する立場であるが教義的な拘束はなく、妙香院や青蓮院が本願寺の教義に干渉した記録はない一方で、むしろ延暦寺による法難の際には最後まで本願寺を擁護し続けた事実を指摘して、本願寺が青蓮院の末寺であったとまでは言えず、反対に妙香院・青蓮院による庇護があったとしている<ref>大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年)) ISBN 4-7924-0589-0 p11-40</ref>。}}
 
[[観応]]元年(1350年)、存覚は覚如と和解するも、本願寺別当職(留守職に住持職を含めた役)には復職せずに甥の[[善如]]に委譲する。