「ローマ帝国」の版間の差分

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{{legend|#8F36B5|東ローマ帝国}}]]
 
コンスタンティヌス1世の没後、帝国では再び分担統治が行われるようになった。[[テオドシウス1世]]も、395年の死に際して長男[[アルカディウス]]に東を、次男[[ホノリウス]]に西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れなかった。もっとも3世紀後半以降、東西の皇帝権が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり、経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり、また自由農民が温存された東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、東西の分裂は早い段階から進行していた。今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼び分ける。ただし、史料などからは当時の意識としては別の国家となっに分裂したわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。
 
==== 西ローマ帝国 ====
{{Main|西ローマ帝国}}
 
[[ディオクレティアヌス]]帝以降、皇帝の所在地としての首都はローマから[[ミラノ]]、後に[[ラヴェンナ]]に移っていた。西ローマ帝国の皇帝政権は[[ゲルマン人]]の侵入に耐え切れず、[[イタリア半島]]の維持さえおぼつかなくなった末、[[476年]]ゲルマン人の傭兵隊長[[オドアケル]]によって[[ロムルス・アウグストゥルス]](在位:[[476年]])が廃位され西方正帝の地位が消滅した。その後も[[ガリア]]地方北部には[[シアグリウス]]が維持する[[ソワソン管区]]がローマ領として存続したが、[[486年]]にゲルマン系新興国[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の[[クロヴィス1世]]による攻撃を受け消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝(全ローマ帝国の皇帝となった東の皇帝の宗主権を仰ぎ、ローマ皇帝に任命された西ローマ帝国の地方長官の資格で統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人的認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、ゲルマン系諸王はローマ帝国の印璽を用い、住民達もまた自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた<ref>ミシェル・ソ、ジャン=パトリス・ブデ、アニータ・ゲロ=ジャラベール『中世フランスの文化』 桐村泰次訳、諭創社、2016年3月</ref>
 
==== 東ローマ帝国 ====
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1453年4月、[[オスマン帝国]]の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落した。最後の皇帝[[コンスタンティノス11世]]は戦死し、東ローマ帝国は滅亡した。残存する[[モレアス専制公領]]や[[トレビゾンド帝国]]も1461年までには掃討された。<ref group="注釈">[[カール大帝]]の代に[[フランク・ローマ皇帝|分裂した東ローマ帝国の帝権]]の後継者を自任する[[神聖ローマ帝国]]が[[1806年]]まで存在していたが、帝国解散の宣言は「ドイツ皇帝」の名義でなされている。</ref>。
 
この東ローマ帝国の滅亡は、中世の終わりを象徴する大きな出来事の1つではあったが、通常「ローマ帝国の滅亡」として認識されることは少ない。これは、東ローマ帝国がその長い歴史の中で性質を大きく変化させ、自らの認識とは裏腹に古代ローマとは異なる国へと変貌したことに起因している。中期以降の東ローマ帝国は、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。このため、特にローマ帝国全史を取り上げたい場合<ref group="注釈">例えば[[エドワード・ギボン]]『[[ローマ帝国衰亡史]]』、[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]『生き残った帝国ビザンティン』 <small>([[講談社]]〈[[講談社学術文庫]] 1866〉、2008年3月、ISBN 978-4-06-159866-9)</small> など。</ref>を除いて西ローマ帝国の「滅亡」をもってローマ帝国の「滅亡」とすることが一般的である
 
=== 継承国家 ===
西ローマ帝国の地を西方正帝の消滅後に西ローマ帝国の地を統治したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命されたローマ帝国の官僚の資格で統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人的認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、住民達も自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた<ref>ミシェル・ソ、ジャン=パトリス・ブデ、アニータ・ゲロ=ジャラベール『中世フランスの文化』 桐村泰次訳、諭創社、2016年3月</ref>。しかし、フランク王国が[[カロリング朝]]の時代を迎え、[[カール大帝|カール]]が教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]によりローマ皇帝に戴冠されたことで、[[ローマ教皇|ローマ総大司教]]管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実ともに離脱し、ローマ帝国は東西に分裂した。ここに後世[[神聖ローマ帝国]]と呼ばれる政体に結実する[[フランク・ローマ皇帝|ローマ皇帝と帝権]]が誕生し、[[1806年]]まで継続した。
 
東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国の君主([[スルターン]])である[[メフメト2世]]および[[スレイマン1世]]は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。ただし[[バヤズィト2世]]のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。
 
その他にも、[[ロシア帝国]]([[ロシア・ツァーリ国]])はローマ帝国とギリシア帝国<ref>当時のロシアで東ローマ帝国を指す名称</ref>に続く第三のローマ帝国としてローマ帝国の後継者を称した。ただし、君主は[[ロシア皇帝]]を自称するも、当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「[[モスクワ大公国|モスクワ国]]の[[大公]]」として扱われている。その後、国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ帝国の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。
 
現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しないが、[[ルーマニア]]の国名は「ローマ人の国」という意味である。そのルーマニア国歌「[[目覚めよ、ルーマニア人!]]」とイタリア国歌「[[マメーリの賛歌]]」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある他、それぞれ[[トラヤヌス]]と[[スキピオ家|スキピオ]]の名(正確には、スキピオは家名)が歌詞に入っている。