「織田長益」の版間の差分

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* 大坂の陣では有楽斎が堺占拠の際捕らえられた[[今井宗薫]]を赦すなど穏健的行動をとっていたのに対し、嫡男・頼長は[[片桐且元]]殺害を計画し、[[織田信雄]]を大坂方の総大将に担ごうとするなど、過激的行動を幕府側にも警戒されており、有楽斎とも対立していた。また頼長は冬の陣では病と称して攻撃に加わらないなどの不審な行動が多く、夏の陣前に「自分を司令官にしろ」と主張して諸将の反対にあい出奔している。有楽斎の大坂城退去は、この頼長の奇行も原因のひとつとされている。
* [[高麗茶碗|大井戸茶碗]]<small>(おおいどちゃわん)</small>は、長益が所持していた経歴から「有楽井戸」などの別名を持つ。
* [[ツバキ]]の一品種「太郎冠者」は別名「有楽」ともいうが、この名は長益(有楽斎)がこの品種を愛したことによる。学名もCamellia urakuである<ref>[http://camellia.unipv.it/camelliadb2/index.php?option=com_content&task=view&id=15&Itemid=27&download=U| 国際ツバキ協会 Web Camellia Register Uの項]11ページを参照
</ref>。
 
== 有楽町 ==
[[東京都]][[千代田区]]の[[有楽町]](ゆうらくちょう)という町名は、長益の号「有楽斎」に由来し、茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川方に属し、[[数寄屋橋]]御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、[[明治]]時代に「有楽町」と名付けられたとの説がある<ref>{{Cite web| url = http://koujimachi.net/newtown/yuraku.html | title = 麹町わがまち情報館 | publisher = 麹町出張所地区連合町会 | accessdate = 2016-10-13 }}</ref>、文字の類似からきた俗説であり、有楽斎がここに住んだという記録はない。有楽町は、明治時代になって、隣の永楽町とともに成立した町名であり、いわゆる瑞祥である。(櫻井澄夫説)
 
その他、[[大阪府]]にも有楽斎に由来する町名がかつて存在した。[[堺]]の[[宿院頓宮]]の南側(現・[[堺市]][[堺区]]宿院町東2丁・同3丁の各一部)は、江戸時代から[[1872年]](明治5年)まで有楽町(うらくちょう)という町名で、有楽斎から[[今井宗薫]]に譲られた屋敷があった。現在も今井屋敷跡碑が立っている。また、[[大阪市]][[西成区]]の[[玉出]]地区の北東部(現・大阪市西成区[[天下茶屋]]3丁目・[[岸里|岸里東]]1丁目の各一部)も、[[1927年]]([[昭和]]2年)から[[1973年]](昭和48年)まで有楽町(うらくちょう)という町名だった。[[西成郡]][[玉出町|勝間村]]時代から[[小字|字]]名として存在しており、有楽斎が居住したといわれる場所で、[[天下茶屋駅]]と[[聖天坂駅]]の[http://map.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E8%8C%B6%E5%B1%8B3-12&lat=34.63432188&lon=135.49799476&ei=utf-8&sc=3&datum=wgs&gov=27122019003&ac=27122&az=19.3.12&layer=pa&v=3 中間に位置する区域]<ref>川端直正 「[http://www.kamamat.org/yomimono/nisinari-kusi/kusi-mokuji.html 西成区史]」 西成区市域編入40周年記念事業委員会 1968 [http://www.kamamat.org/nisinari-ku/ku-zenbou/kusi-1-1.html 第1編 総説 第1章 西成区の誕生]</ref>には、現在も「有楽」を冠したマンション名などが点在する。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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<references group="注釈" />
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{commonscatNCommonscat-inline|Oda Nagamasu}}
 
{{織田氏歴代当主|長益系織田氏|1574年 - 1622年|初代}}
{{味舌藩主||1590年 - 1622年}}