「第二次ポエニ戦争」の版間の差分

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[[画像:Isis priest01 pushkin.jpg|thumb|right|150px|スキピオ・アフリカヌス像]]
 
[[紀元前210年]]、プブリウス・コルネリウス・スキピオの同名の息子、後の[[スキピオ・アフリカヌス]]が新司令官としてヒスパニアに到着した。指揮官の戦死でローマ軍は意気消沈していたが、スキピオは卓越した手腕で軍を掌握し、またたくまに失地を回復した。[[紀元前209年]]、スキピオはヒスパニアの首都といえるカルタゴ・ノヴァ(現[[カルタヘナ_(スペイン)|カルタヘナ]])を強襲、制圧した。その後、この町で職工などを雇い、新兵の訓練と[[グラディウス (武器)|武装]]の生産を急ピッチで進めた。[[紀元前208年]]、ハスドルバルは反撃のため、分散していたマゴの軍と合流しようとした。これを察知したスキピオは、合流前に各個撃破するべくハスドルバルのもとへ急行し、[[バエクラの戦い]]でこれを破った。ここにおいてカルタゴのヒスパニアにおける支配力は低下した。
 
ハスドルバルはヒスパニアの放棄を決意し、ハンニバルの元へ最後の援軍を派遣するべく、自身軍団を率いてイタリアへ向かった。ハンニバルと同様に、アルプス越えをしてローマ軍の警戒線を抜けるつもりだったが、今回はローマはこれを予想していた。ハスドルバルの軍団は、[[ガイウス・クラウディウス・ネロ]]と[[マルクス・リウィウス・サリナトル]]率いるローマ軍に進軍を阻まれた。[[紀元前207年]]、[[メタウルスの戦い]]でカルタゴ軍は撃破され、ハスドルバルは戦死、その首は剥製にされてハンニバルの陣営に投げ込まれた。