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'''マルコポーロ事件'''(マルコポーロじけん)
== 概要 ==
発端は、文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』の1995年2月号に掲載された記事「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」であった。記事は国立病院に勤務する
その内容は、[[ナチス党]]政権下の[[ドイツ]]が[[ユダヤ人]]を[[差別]]、迫害したことは明白な史実としながらも、
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雑誌発売を受けて直ちに、[[アメリカ合衆国]]の[[ユダヤ人]]団体と[[駐日イスラエル大使館]]が、同誌を発行する文藝春秋社に抗議を開始した。特に[[サイモン・ウィーゼンタール・センター]](SWC)が内外の企業に対して、[[週刊文春]]をはじめとする文藝春秋社発行雑誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけた。ただしイスラエル大使館やSWCは終始一貫してマルコポーロの廃刊は求めていない。この事態により事件の話題性とニュースバリューは高まり、マスコミや識者から事件が注目され、言論界や国民各層から記事への批判や文芸春秋への抗議が寄せられるようになった。『マルコポーロ』編集部は、当初、抗議団体に反論のページを提供するなどして記事事実の撤回と謝罪を拒んでいたが、結局、文藝春秋社は『マルコポーロ』自体の自発廃刊と社長・『マルコポーロ』編集長ら雑誌編集・発行に対して責任のある人々の解任を決定した。
執筆者の西岡内科医や木村愛二などホロコースト見直し論者はこの決定に抗議を展開した。また、歴史認識と言論の責任をめぐって広範な議論が起こった(廃刊抗議者が論ずるようなナチ賛美はヨーロッパでは犯罪と定義されている)。また、この事件をきっかけとして、過度な広告収入への依存に対する反省や出版社のスポンサーからの自立についても議論が広がった。
== 西岡論文 ==
=== 西岡内科医による主張 ===
以下、要点。
# まず、事実上全ての歴史家が認めているように、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が「ユダヤ人絶滅」を命じた命令書は、今日まで発見されていない。
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気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だと思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を「ネオナチ」や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか?このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。}}
こうした主張の根拠として、著者は
{{Quotation|連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。<br/>
ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。<br/>
これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅計画は極秘事項だったので、命令は全て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日まで一枚も発見されていない。もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。実際、アメリカにはこのような主張をする人々がおり、それなりの「証言」や談話の記録、会議録、手紙などを引用する人すらいるが、結論から言うと、彼らが引用するそれらのものは、全く「証拠」になるようなものではない。具体的には、[[ニュールンベルク裁判]]における[[ハンス・レマース]]の証言、[[ハインリヒ・ヒムラー]]が[[1943年]][[10月4日]]に行なったとされる談話の筆記録、[[ヴァンゼー会議]]の記録、[[ヘルマン・ゲーリング]]が[[1941年]]7月31日に書いた手紙、ベッカーという軍人のサインがあるソ連発表の手紙等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。それどころか、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものの内容が、実はユダヤ人の「絶滅」等ではなく、ユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書が、押収されたドイツの公文書の中に多数発見されている。それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。}}
このように、虐殺に関しての直接の証拠が存在しないと著者が主張する一方で、強制移住を示唆する文書が発見されていることから、ユダヤ人問題の「最終解決」とは虐殺ではなく「ユダヤ人の強制移住」を意味するものである、と西岡内科医は主張する。
また、「ホロコースト」の内容が
そして、冒頭で言及しているように、こうした「ガス室」に関する目撃証言などを最初に疑った歴史家が、[[フランス]]の元[[レジスタンス運動|レジスタンス]]であった左翼系歴史家ポール・ラッシニエであったことに触れて、こうした検証は「[[ネオナチ]]」の[[プロパガンダ]]などではない、と著者は述べる。
こうしてナチス政権下のドイツは、確かにユダヤ人を差別・迫害した、と著者は結論づける。ドイツは、ユダヤ人を
{{Quotation|アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で戦争末期にチフスが発生し、多くの死者を出したことは、明白な事実である。このことについては「ホロコースト」があったとする人々も異論を唱えてはいない。ナチスが建設したユダヤ人収容所で衛生業務に当たったドイツ軍軍医による記録、ドイツ西部で解放直後の強制収容所の衛生状態を観察したアメリカ、イギリスの医師たちによる報告などは、一致して、戦争末期から戦争直後にかけての強制収容所でのチフスの発生のひどさを詳細に記録しており、このことについては論争の余地はないものと思われる(J・E・ゴードンなど)。問題は、ドイツがそのような状況にどのように対応したかであるが、ドイツ軍当局は、ユダヤ人を戦時下の労働力として温存したかったのであり、意図的に衛生状態を悪化させたと考えさせる証拠は見つからない。例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十二月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。「死亡率は、絶対に低下させなければならない」この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?}}
なお、こうした議論の中で西岡内科医は
{{Quotation|ナチスドイツがユダヤ系市民に対して行なった様々な差別政策や弾圧は、民主主義の原則に対する明白な挑戦であり、その最終局面としての強制移住計画は、私自身を含めて、誰もが不当と言わざるを得ないものである。しかし、だからといって、ドイツがやっていないことまでやったと強弁することは間違っているし、そのことで、戦後生まれの若いドイツ人が罪人扱いされることも、こうした事実を検証しようとする言論を政府が抑圧することも明らかに間違ったことである。詳しく述べることが出来なかったが、六百万人という犠牲者数にも全く根拠がない。そもそも、ドイツが最も占領地域を広げた時ですら、そこにいたユダヤ人の数は、四百万人もいなかったという指摘もある。<br/>
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=== 反論・批判 ===
==== 石田勇治による反論 ====
[[石田勇治]]
# ホロコーストに関する「定説」と情報操作
# ガス室の構造とツィクロンB
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の三つに整理した上で詳細な反論を展開した<ref>[[石田勇治]]「ナチ『ガス室』はなかったか ホロコースト見直し論を検証する」。『歴史地理教育』に掲載後、『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(初版1995年、白水社Uブックス2005年)所収。これはティル・バスティアンによる『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(C.H.Beck社)に補足して、[[石田勇治]]、[[星乃治彦]]、[[芝野由和]]が編集したもの。</ref>。まず1.では、著者が問題とするホロコーストに関する「今日の定説」そのものに誤解・曲解があり、著者が批判する旧西ドイツの歴史家ブローシャトについても誤った記述をしていると批判した。2.では[[ジャン・クロード・プレサック]]の『アウシュヴィッツの焼却炉』に言及しつつ、アウシュヴィッツのガス室の構造を説明し、さらに毒ガスのツィクロンBは、著者の記述に反して、気化するために加熱を必要としないと論述している。さらに3.では、ヒトラー本人による虐殺命令文書が存在しないことは昔から自明の事柄であり、逆に著者が「証拠にならない」として退けた五つの史料(ニュルンベルク裁判でのラマース証言、ヒムラーの秘密演説、ヴァンゼー会議の議事録、ゲーリング書簡、親衛隊少尉ベッカーの報告)について、これらを否定しようとする著者の主張には根拠がないと言明した。
==== 西岡内科医による再反論 ====
こうした通説の立場からの反論に対して西岡内科医は、廃刊事件直後から[[パソコン通信]]([[PC-VAN]])上で、さらに1997年に『アウシュウィッツ『ガス室』の真実:本当の悲劇は何だったのか?』(日新報道)を出版し、再反論している。西岡内科医は'''『マルコポーロ』の記事に部分的には誤りが存在したことを認めたうえで'''、「ドイツがユダヤ人を絶滅しようとしたとする証拠はない」「ガス室でユダヤ人が殺された証拠はない」という主張を維持している。
西岡内科医による修正点は以下の通り<ref>西岡,1997</ref>。
#サイクロンB([[ツィクロンB]])が青酸ガスを遊離し続ける時間が長時間である事と、サイクロンBの毒性の問題を混同し、サイクロンBの毒性が低いかの様な記述をしてしまった事
#同じくサイクロンBの使用に際して、サイクロンBを加熱する事が必須の操作であるかの様な記述をした事。
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発売直後に[[ロサンゼルス]]の[[ユダヤ人]]団体[[サイモン・ウィーゼンタール・センター]](SWC)と[[イスラエル]]大使館は『マルコポーロ』編集部に抗議を開始。またSWCは『マルコポーロ』のこの号が発売された直後に駐米日本大使に記事を非難する書簡を送った。またSWCは文藝春秋に広告を出稿する企業に向け文藝春秋に一切の広告を提供しないよう求めた。ただし廃刊までは求めなかった。この広告ボイコットには欧米企業だけでなく日本企業も応じ広告ボイコット運動を是とした。欧米企業はもともと文藝春秋に広告を出稿している企業が少なかったため呼びかけに呼応する企業数は日本企業のそれよりも少なかった。呼応した企業のひとつである[[マイクロソフト]]社は廃刊が発表された後にボイコットに応じている。
『マルコポーロ』編集部はSWCに反論のページを10ページ提供すると提案。しかし、SWCは反論書に対する編集権が『マルコポーロ』編集部にあり反論を掲載すべきメディアとして不適当として無編集掲載を要求したが『マルコポーロ』編集部この要求を拒否した。その結果徹底的な広告ボイコット運動が続けられることになった。広告出稿企業はこうした運動を無視して広告を出稿をする自由があったが、多くの出稿企業はSWCに理(と利)有りとして『マルコポーロ』を含む『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』各誌への出稿を自発的にとりやめた。こうして文藝春秋は企業存続の窮地に陥った。西岡内科医が雑誌のインタビューなど述べたところによれば、『マルコポーロ』廃刊の決定がなされる直前、文春社内では「経験したことのない事態」であるとの発言があったほか、「早く何とかしないと『[[ニューヨーク・タイムズ]]』が動き出す」といった発言をした幹部がいたと言う事実を文春関係者から聴いたという。なお記事執筆者の西岡内科医には雑誌編集権が無いため雑誌の編集をめぐる抗議や圧力は寄せられず、『マルコポーロ』廃刊が発表された後に記事の執筆者責任をめぐる批判が寄せられるようになった。
=== 文藝春秋による謝罪と『マルコポーロ』廃刊 ===
発売から13日ほどが経った1月30日、文藝春秋は編集権は執筆者ではなく編集部であり発行責任は出版社自身にあるとして西岡内科医には相談せず、出版社として「記事は誤り」と発表し公的な謝罪をすると共に、『マルコポーロ』の廃刊と[[花田紀凱]]編集長の解任、記事に関係する幹部構成員の更迭を行った。[[田中健五]]社長
廃刊が発表された1月30日、[[外務省]]の斎藤事務次官は記者会見を開き、外務省の見解として「廃刊措置は適切だった」と述べている。
=== 江川紹子による指摘 ===
この廃刊の決定を
{{quotation|明石市から被災地に入って、毎日少しずつ移動しながら8日目に西宮市に到着した。もちろん今回の阪神大震災の取材のためである。1月30日、今回の取材日程も最終日となった日の午後3時頃のことであった。携帯電話が鳴った。「突然ですが・・・」聞こえた文藝春秋社の月刊誌『マルコポーロ』のKデスクの声は暗く深刻だった。「マルコが廃刊となりました。今売られている号で最終号です。次号は出ません」「ウソでしょう。なぜ・・・」
ユダヤ人のホロコーストを巡る記事が問題になって、ユダヤ人の団体から抗議を受けたとのこと。交渉中だったが、会社が廃刊を決め、それが産経新聞に出るという話だった。青天の霹靂とはまさにこのことだ。}}
江川は
{{quotation|『マルコ』については、以前から休刊の噂はあった。今回の思い切った判断は、『マルコ』だったからのことではないのか。これが『週刊文春』や『文藝春秋』だったら、ろくに交渉もせずに、同じような対応をしただろうか。なにしろ今回は、役員でもない塩谷北米総局長がセンターとの交渉に当たるだけで、田中社長など役員は相手方と直接会って交渉することもせずに、結論を出しているのだ<ref>江川1995</ref>。}}
『マルコポーロ』が赤字であった事に加えて、事件の際、SWCとの交渉の窓口であったのが、塩谷北米総局長(当時)であったと言う指摘である。塩谷北米総局長はまた、後述する2月2日にホテル・ニューオータニで文春とSWCが開いた共同記者会見において、田中
=== 西岡内科医による批判 ===
廃刊が発表された1月30日(月)、問題となった論考の執筆者である西岡内科医は、朝日新聞夕刊紙上(社会面)で、文春の一方的な決定に対する強い怒りを表明した。この朝日新聞夕刊に掲載された西岡内科医の主張は文春の謝罪と食い違っていたが、新聞で西岡内科医が語ったとされる主張は西岡内科医自身の主張である事実に違いはなかった。<!---独自研究?出典なし---(本田は、西岡が文春の謝罪に同意していない事を西岡の肉声によって報じる事で、SWCに謝罪した文春が窮地に陥る事を予期して、西岡の肉声をいち早く報じたと思われる。)--->
西岡内科医は、廃刊発表の2日後の2月1日に[[総評会館]]で[[木村愛二]]企画による記者会見を開いた。一方、文春関係者の一人も廃刊が発表された1月30日の夜、西岡内科医に電話をかけ文春・SWCに対抗する記者会見を開く事をひそかに提案しており当時の文春社内での社員の不満が伺える、と西岡内科医は述べた。が、それらを含めた会見発言や発言内容の動揺は執筆者の責任回避と受けとめられ、記者会見の西岡内科医の主張が在京マスメディアで好意的に受け止められることは無かった。
==== 厚生省による職務専念義務指導 ====
廃刊発表の翌日の1月31日、当時[[厚生省]]職員であった西岡内科医の行動に対し、厚生省は国家公務員法が規定する職務専念義務を西岡内科医に求めるため、勤務病院幹部を通じ事件について今後一切発言をせず職務に専念するよう指導した。<ref>この厚生省による職務専念義務指導については、m9 Vol.2 ([[晋遊舎]]ムック2008年)に掲載された同誌による西岡内科医へのインタビューで「西岡側主張」として述べられている</ref>。またその翌日に行われる事となった記者会見を中止するよう強い指導を実施した。厚生省直轄の勤務病院で「西岡内科医はなかば軟禁状態に置かれた」と「西岡内科医は」主張している。だが、警察への被害届は無く、後述するように実際には出入り自由であった。
記者会見当日の2月1日、西岡内科医は
=== 文藝春秋社とSWC共同記者会見 ===
2月2日、文藝春秋社とSWCはホテル・ニューオータニで共同記者会見を開催した。廃刊の決定に不満を持つ元編集者は、取締役会の方針に反してホロコースト見直し論者であるフリージャーナリストの[[木村愛二]]を会場に乱入させ、木村
田中社長の記者会見について。
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==== 宅八郎の指摘 ====
『[[週刊SPA!]]』にコラムを連載していた[[宅八郎]]もこの記者会見に出席したが、繰り返し挙手をしたにもかかわらず、最後まで指名されなかった。宅
{{quotation|いやあ、ボク、会場入り口の受付で、文春の人に念を押されちゃった。「頼みますよ、宅さん」だって。不穏なものを感じたのかな(笑い)集まった記者の数、数100人。外国人記者も多かった。みんなマジメ。間違っても芸能レポーターはいない。同時通訳の電波で流される受信機のイヤホンをみんなが耳に突っ込んでるのが異様だった。ボクの存在も浮いちゃってたけどな。会見は、文春の全面謝罪白旗降伏なんだけど(当たり前か)、花田編集長が来てなくて(呼ばれてなくて)、記者たちは不満顔。記者の追及の矢面に立ったのは、田中社長だった。それでボクも、最前列で、質問しようと2時間もずっと手を上げてた(笑い)。だけど、司会者はボクだけは完全無視してて、絶対に指してくれないんだよな。チェッ。事件について整理しておく。まず、「歴史好きの医者」が書いた「ナチ収容所でのユダヤ人虐殺はなかった。なぜなら証拠がない」という記事にはかなりズサンな印象を持っていた。「証拠がないから歴史にない」というのは乱暴だからだ。ただしボクは、人間、あらゆる見解を持つことは自由だと考えている。だから断定でなく、それまでの定説に疑義をていする範囲であれば、問題は少なかっただろうと思う。(表現の自由の範囲外として、ホロコースト否定を唱えた者を罰するドイツの法には疑問があるが、少なくとも「ナチス問題」の当事者国の民意としては一定「認識」は必要だろう。)それを断定的に「公表」するには、明証責任が発生する。つまり、記事に「ガス室は歴史上なかったという証拠」を提出しなきゃならなくなる。ユダヤ側も発言していたが、やはり記事を断定支持したととれるリード文が、出版責任として問題となったのだろう。しかし、会見の文春側の対応は、しどろもどろ。「何が問題なのか。何を謝罪しているのか」さえ曖昧なものだった。記事に事実誤認があったのかどうか、掲載したことが問題なのか、ハッキリ認識していないようでもある。事実誤認があったというなら、「どこが」を指摘しなければならない。思ったのは、ワイドショーのレポーターじゃないけど、「社長、それで、ガス室はあったんですか!なかったんですか!」という質問がとべば、文春は困ったんじゃないか(笑い)。それがたんに「ひでえ記事でユダヤ人を侮辱してすんません」なんてコメントじゃ、記事を書いた人だって怒るだろう。今回、著者を置きっぱなしにして、文春がとった措置(回収・謝罪・廃刊)に著者自身は怒っている。出版社の著者に対する無責任だと感じた。これじゃ「載せ逃げ」だ。著者一人に責任を取れずに、ユダヤ人に責任を取ったつもりなのか。著者に対する責任をどう考えるのか。これは、同じく著者として生きている人間にとっての大疑問である。その無責任さは、廃刊にもつながっているよう思う。頼まれたわけでもないのに、勝手に自発的に廃刊にしたんだぜ。議論の余地をみずから絶つ「廃刊」なんて無責任だろう。建前だけの謝罪。「謝ってあげよう」「廃刊するんだから許して」としか思えなかった。しかし、会見ではマジメな新聞記者の質問も、建前しか返ってこないものではあった。「事件は今後の出版方針にどう変化を与えるでしょうか?」なんて聞いてどうするんだ。(笑い)ボクも指名されたかったなあ。なぜか、有名新聞記者ばっかり質問していたな。}}
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=== ポーランド大使館の態度 ===
また、記事の中で西岡内科医に「ガス室を捏造した」と名指しされたポーランド大使館は沈黙を守っている。新聞、テレビは、ポーランド大使館の沈黙に注目しなかったが、『[[噂の真相]]』は、ポーランド大使館に沈黙の理由を問い合せている。この『噂の真相』からの問い合わせに対し、ポーランド大使館は「既に抗議活動が起きていたので、それに加わる必要はないと考えた」という意味の回答を寄せている。
=== 執筆者主催による炎上集会 ===
[[木村愛二]]は
2月18日の討論会の場で、[[常石敬一]]
=== アジア記者クラブ主催講演 ===
[[アジア記者クラブ]]は、西岡内科医と木村を招いて
オウム真理教への強制捜査などの報道の中、世論の多数が廃刊やむなしで収束したことにより、この事件の報道は下火となっていったが、文藝春秋社で開かれたSWCによるセミナーのやりとりが密かに録音され、『噂の真相』で記事として暴露された<ref>。「噂の眞相」1995年4月号「特集2ユダヤ人団体の抗議と広告撤退に完全屈服!『マルコポーロ』を突如廃刊にした文藝春秋の寒々しい“言論事情”」 丸山昇 1995年4月2日発行 2014年11月24日閲覧</ref>だがこのような散発的に書かれるセンセーショナルな記事も、マルコポーロ編集部の編集責任の欠如を結果的に強調するものとなり、マルコポーロ廃刊やむなしとの世論を補完する方向に作用した。
=== 渡辺武達による批判 ===
一方、同志社大学
{{Quotation|文藝春秋はもともと、(1)販売政策としてもうかる(2)結果として記事が市民層を揶揄し、権力層の好む方向での世論形成になる、という条件のいずれかをクリアーしさえすればなんでもしてきた会社だから、この廃刊についても外向けにはユダヤ資本のからむ広告主が圧力をかけたから……などと、俗耳に入りやすい説明が流れるままにまかせ、「自分たちは弱者、被害者だ」というカマトトぶりを演じた。広告主……については、私もまたそれが廃刊の理由の一つだと思う。が、この文藝春秋は、とりわけその雑誌記事を分析すれば分かるように、新潮社とおなじく公安権力との関係が深く、オーディエンス(読者・視聴者)を誤導する情報提供をしばしばしてきたところであることを私たちは忘れてはならないだろう。 }}
さらに、文藝春秋取締役であった[[岡崎満義]]が
この岡崎発言について渡辺教授は
=== 花田編集長の動向 ===
『マルコポーロ』編集長の職を解かれた花田編集長は事件後、文藝春秋の閑職とされる戦後史企画室に異動となった。異動後は心機一転、新雑誌の企画を提案していたが上層部に相手にされないことが多かったことから、だんだんと出社しなくなり、事件の1年後に文藝春秋社を退社した。同時に『朝日新聞』が立ち上げた女性向け月刊誌『[[UNO!]]』編集長に就任し、マスコミを驚かせた。
花田編集長の朝日新聞移籍に際しては、朝日新聞の[[本田雅和]]が自社批判を展開している。
なお、この『マルコポーロ』最終号の表紙を飾っていたのは、後にテレビドラマ『医龍』等で人気を集める女優[[稲森いずみ]]であった。
== 海外での報道 ==
『マルコポーロ』の廃刊をめぐっては日本国内外で大きく報道がされた。日本国外では、ドイツ、オーストリアで
*AP通信は、総評会館での記者会見の後、西岡に英語でインタビューを行い録画している。
*後にフリージャーナリストとなる[[徳本栄一郎]]
== 日本国内での報道 ==
=== 新聞 ===
当時の日本の新聞、雑誌報道の大部分は、記事の内容に関する議論を避けている。また『マルコポーロ』の廃刊が決定される直前、SWCが西岡内科医がアウシュヴィッツを訪れていないとする事実に反するファックスをマスコミに送付したため、マスコミの関心は、西岡内科医はアウシュヴィッツを訪れたのか、花田編集長にはいつ会ったのかなど、末梢的な事柄ばかりに費やされた。その中で、記事の内容に比較的踏み込んだのは『朝日新聞』で、前述の[[本田雅和]]が社会面で「西岡論文とは何だったのか?」と題された大きな記事を執筆したが、他の新聞は総じてこうした記事の内容に関する検討を避けた。
*『[[読売新聞]]』と『[[毎日新聞]]』が特に記事に対して批判的で、『毎日新聞』は事件前に西岡内科医が多くの個人、マスコミに送付したパンフレットと記事の原稿を混同して、それを売り込みと誤認する記事を掲載している。同様の事実誤認は『[[週刊SPA!]]』誌上で「ゴーマニズム宣言!」を連載していた[[小林よしのり]]もしている<ref>ゴーマニズム宣言の項参照</ref>。
*『[[読売新聞]]』が発行していた月刊誌『[[This is 読売]]』でも西岡内科医を批判した。
*『[[産経新聞]]』は、西岡内科医の問題提起自体については大きく取り上げながら、SWC側の見解を[[古森義久]]のインタビューによって伝え、またイスラエル大使館の発言を伝えるなどバランスを取っていた。
*[[日本共産党]]機関紙『[[赤旗]]』はこの事件を大きく取り上げ、収容所の写真などを掲載して、『マルコポーロ』が掲載した西岡内科医の記事と文春を強く批判している。
*スポーツ新聞では西岡内科医に同情的な記事が複数見られた。[[夕刊フジ]]はこの問題を連日大きく報じたのに対し、[[日刊ゲンダイ]]は、扱いが小さかった。
=== 雑誌、週刊誌 ===
179行目:
*朝日新聞が発行する月刊誌『[[科学朝日]]』が「リビジョニストの科学」を掲載。
*『[[フライデー (雑誌)|フライデー]]』は中立的な記事を伝えている。
*月刊『[[潮]]』は[[創価学会]]寄りの雑誌であるが、この事件を取り上げた[[浅野健一]]の記事は、浅野が[[木村愛二]]と個人的に友人であったためか、西岡内科医の記事の内容に関する検証を避けている。
*『週刊現代』(1995年2月18日号)は「言論には言論でという自由社会の「言論の自由」が、強力なプレッシャーを保持するSWC(ウィーゼンタール・センター)には通用しないとも受け取れる」とSWCの手法に疑問を投げ掛けている<ref>『週刊現代』1995年2月18日号</ref>。
*『[[ニューズウィーク]]日本版』は「『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学会」(1989年6月15日号)で、[[プリンストン大学]]のユダヤ系歴史学者[[アーノ・メイヤー]]が、アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人の多くは病気や飢餓であったとする問題提起をしたことを取り上げた雑誌であり、西岡内科医が『マルコポーロ』にこの記事を書く最初の切っ掛けを生んだ雑誌であった。しかし、『マルコポーロ』事件に際して、この雑誌が事件を取り上げた報道は非常に小さく、ほとんど取り上げないに等しい扱いであった。
*『[[週刊金曜日]]』は、『マルコポーロ』廃刊の数か月前まで[[本多勝一]]がホロコースト見直し論に強い関心を抱き、[[木村愛二]]に連載を依頼したり、本多自らが、西岡
*月刊『創』は、編集長篠田博之による記事「文藝春秋・田中健五前社長の憂鬱」のほか、江川
=== インターネット ===
こうした事件後の報道がなされた当時、インターネットは
== 事件の背景分析 ==
ジャーナリストの[[真山巴]]
なお、2月2日の記者会見とその前後のマスコミの状況について、
{{Quotation|『マルコ』廃刊事件の報道(以下「マルコ報道」)において、マスメディアは「一時的かつ表面的」な特徴を遺憾なく発揮した。廃刊の真相や背景の究明が不足していただけではなくて、問題の記事、「ナチ『ガス室』はなかった」の中心的な論拠であり、この問題の核心的争点である「ガス室」と「チクロンB」に関する事実関係の議論までが、まるでおこなわれていない。それなのに総ジャーナリズム的バッシング報道の嵐は、同年三月二〇日に発生した[[地下鉄サリン事件]]以前に、早くもすぎ去ってしまった。<br/>
199行目:
わたしは、二月二日に行われた文藝春秋とサイモン・ウィゼンタール・センター(以下SWC)の共同記者会見の席上で、「ガス室」と「チクロンB」に関する数度の調査結果の存在(本文で紹介)など、いくつかの重点的事実を指摘し、「そういう事実を調べた上で廃刊を決めたのか」と質問した。そのさい、[[田中健五]]社長(当時)の顔色は急速に青ざめた。わたしが回答を催促すると、上半身をフラフラとぐらつかせながら、「そんな細かいことをいわれても、わたしにはわからない」と、おぼつかなげに回答している。この態度と回答内容は、事実関係の調査をまったく行わなかったことの自認にほかならない。なお、わたしだけができたと自負するこの質問と田中社長の回答状況について、わずかに報道したのはスポーツ紙だけであって、大手マスメディアの報道はまったくなかった。}}
事件を巡る批評については、『週刊SPA!』では[[小林よしのり]]が
図書館関係者の雑誌『[[ず・ぼん]]』は西岡内科医と社会学者の[[橋爪大三郎]]の対談「『ナチ・ガス室』はなかったの論理を検証する」を掲載し、同時に、リベラル系のジャーナリストである[[長岡義幸]]の記事を掲載させたが、長岡はこの記事の中で事件を巡るマスコミの報道姿勢を強く批判している。
*俳優の[[中村敦夫]]
*保守系言論人の反応は複雑で、上述の[[古森義久]]は
*後に「新しい歴史教科書を作る会」を立ち上げる一人となる[[西尾幹二]]
=== 風刺漫画 ===
漫画家では、[[やくみつる]]と[[いしいひさいち]]が対照的な視点から事件を風刺した4コマ漫画を描いている。やく
== 言論の自由などに関する事件への批判 ==
一連の事件が収束した後も、この事件を巡る論争が継続した。重要な争点のうちの一つは[[言論の自由]]の観点から提出されたものであった。そこではSWCによる広告ボイコット運動という手法と、それに応じて文藝春秋社が取った措置の両方が批判された。
月刊『創』
更に、記事の執筆者である当時厚生省の職員(医務官)であった西岡が厚生省から記者会見中止の圧力を加えたことは、中央官庁による言論介入が行われたことを意味し、重大であるが、当時の新聞・テレビは、こうした問題を深く掘り下げて報道しなかった。
=== 江川紹子によるサイモン・ウィーゼンタール・センター批判 ===
この措置によって文藝春秋社が執筆者に一言の相談も無く、記事の内容を取り消し、広告ボイコットの圧力に屈したとして
{{quotation|第一に、問題の記事をどう考えるかという点だ。私は前述のように、この記事を支持しない。(中略)第二の問題点は、サイモン・ウィーゼンタール・センターのとった、広告ボイコットという手法についての評価だ。(中略)ウィーゼンタール・センターの今回の手法は、民主主義のルールを踏み越えていると思う。クーパー師は「広告拒否という強硬手段は異例なことだった。ボイコットは大変深刻な場合のみである」と述べたが、私はその答えでは納得できない。『マルコ』側は反論の機会を用意していた。(それが同じ号に掲載するべきだったことは前述の通りだが)。『マルコ』に西岡氏の記事の倍のスペースを求めて、同センターが調査したホロコーストの実態を伝えることもできた。あるいは謝罪を求めるにしても、『マルコ』で出された記事については『マルコ』誌上で詫びさせるのがスジだろう。ところが、同センターはなんの交渉もせず、広告主へのボイコット要請を行った。(今私の手元にあるマイクロ・ソフト宛のボイコット要請文書は1月19日付である)。当初から広告による圧力を行ったのだ。仮に文春あるいは『マルコ』編集部の側に交渉の誠意がない場合は、このような強硬手段もやむを得ないだろうが、この場合はそうではない。(中略)確かに、言論の自由は面倒くさい側面がある。分かり切ったことであっても、異論が出た時には、きちんと言論によって反論しなければならない。いちいちそうした手間をかけるのは、時に面倒なものだ。しかしそれは、いかなる内容のものであれ、優秀な独裁者を抱くよりも民主主義を選択している私たちにとって最も大切な原則の一つ言論の自由を守るための、いわば経費である。私たちが惜しんではならない手間ではないだろうか。自由な議論の中で、事実に反する言論は淘汰されていくだろう。}}
{{quotation|今回の事件で、ユダヤ人を巡る問題は完全なタブーになるだろう。前出の木村氏は、西岡氏と同じ立場で単行本を出す予定だが、「新聞広告は出してもらえないし、流通も通常のルートからは拒否されそうな状況」(出版社)という。ホロコースト否定でなくても、ユダヤ人批判は当分マスコミから消え失せるだろう。それがユダヤ人に対する新たな偏見や差別を生む危険は大いにある。同センターとは別に、冷静に(かつ 然と)交渉を持とうとしたイスラエル大使館が「これが原因で、強大なユダヤの力によって雑誌を廃刊させたなどといわれ、ユダヤに対する偏見を助長させないかと心配しています」(『週刊現代』に対するコメント)と危惧するのも当然だろう}}
=== 言論の自由に関する見解・批判 ===
*[[大月隆寛]]や[[安原顕]]のように中立的立場をとろうとした論者は、『マルコポーロ』は西岡の記事と併せてそれに反論する記事を掲載するべきであった、と述べた。
*
*[[一水会 (思想団体)|一水会]]代表であった[[鈴木邦男]]は、事件から1年を経た時点で、新宿のライブハウス[[ロフトプラスワン]]に記事を書いた西岡内科医を招き、対談を行っている。この場で、鈴木は「言論には言論を」と言う自分の信条を改めて述べ、廃刊に至る文春の行動を批判している。
*1997年、評論家の[[日垣隆]]は、西岡内科医が同年出版した単行本『アウシュウィッツ「ガス室」の真実 本当の悲劇は何だったのか?』 [[日新報道]] を[[毎日新聞社]]が発行する[[エコノミスト]]の書評で好意的に紹介し、間接的に、事件当時の言論の空気を批判した。
*フォトジャーナリストの[[広河隆一]]
*[[副島隆彦]]
*ジャーナリストの[[田中宇]]
出版物でのタブー化の空気とは対照的に、ネット上で、'''マルコポーロ事件'''と[[ホロコースト]]見直し論を論じるブログ等は、数多い。
文芸批評家の[[すが秀実|絓秀実]]
== 歴史学からの批判 ==
=== 歴史学者石田勇治のコメント報道 ===
事件当時、『[[サンデー毎日]]』1995年2月19日号は、[[小野博宣]]による電話取材で
{{Quotation|『中吊り広告を見てすぐ買ったが、驚いた。不正確な記述としかいいようがない』というのは、ドイツ史が専門の石田勇治東大助教授。『タネ本はすぐ分かる。ロンドンで出版された『ロイヒター・レポート』という本で、これはネオナチのバイブル。『マルコ』では欧米で論争になっているように書いているが、歴史研究の立場からすると、論争などまるでない。ヒトラーの虐殺指令書がないとか、ドイツ国内に『絶滅収容所』がないというのは本当です。しかし、筆者(西岡)の発想とはまるで逆に、『命令文書がなかったから虐殺はなかった』ではなく、『命令文書がないのにあれだけの虐殺があったのはなぜか』という研究が数多くされている。また、サイクロンBに関する研究もたくさんあり、十分殺傷能力があるとされている。ドイツでは保守派の学者でも『ガス室はなかった』とは言っていない。史実に反することですから。』}}
この石田
{{Quotation|『サンデー毎日』(2・19)も『マルコ』記事の評価を簡単な電話取材でごまかした。 「『中吊り広告を見てすぐ買ったが、驚いた。不正確な記述としかいいようがない』というのは、ドイツ史が専門の石田勇治東大助教授。『タネ本はすぐに分かる。ロンドンで出版された「ロイヒター報告」という本で、これはネオナチのバイブル(後略)』」 本人に直接たしかめたところ、『ロイヒター報告』そのものを読んでいるどころか、実物を見てもいない。ドイツ語の見直し論批判本の名を二つ挙げただけだった。こんなズサンな肩書きだけの談話記事で、西岡内科医が「ネオナチのバイブル」を引き写して作文したかのような印象が作りだされているのだ。 石田助教授はさらに、「歴史研究の立場からすると、論争はまるでない」としているが、論理矛盾もはなはだしい。本人が「二冊持っているドイツ語の本」そのものが、論争の存在の立派な証明である。論争とは、権力御用、学会公認の公開論争だけを指すのではない。}}
また
=== 歴史学界の動向 ===
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[[梶村太一郎]](ベルリン在住のジャーナリスト)と[[金子マーティン]](日本女子大学教授、社会学)は、マルコポーロ事件に関連して「[[週刊金曜日]]」1997年1月誌上でホロコースト否定論を糾弾した<ref> [[金子マーティン]]「「ガス室はなかった」と唱える日本人に捧げるレクイエム」『週刊金曜日』155号 1997年1月24日。金子マーティン「ガス室存在の明白な資料を無視する木村愛二」『週刊金曜日』156号 1997年1月31日</ref>。
これに反発した木村
== 参考文献 ==
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