「細川ガラシャ」の版間の差分

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なお、細川家の系図(『熊本藩世系』)では忠興の12人の子のうち玉子所生は長男・忠隆(天正8年生)、次男・興秋(天正12年生、あるいは11年とも)、長女・長(生年不明、前野長重室)、三男・忠利(天正14年生)、三女・多羅(天正16年生、稲葉一通室)の5人とされており、当時13歳だった多羅に、さらに同母の弟妹がいたとは認められていない<ref name="Kaneko"/>。
 
== 人物 ==
*キリシタンの宣教師が彼女の性格を評したものや、『細川記』に採録されている逸話を見ると、激しい性格の持ち主であったらしい{{Sfn|村井|1976}}。
 
*いったん事がる時は甲冑をつけ、馬に乗り敵に向かっても、私は男にさまで劣るまいと語った{{Sfn|村井|1976}}。
 
*夫の忠興が、家臣を手討ちにして、その刀の血を彼女の小袖で拭っても動ずることなく、そのまま数日間も着替えないので、結局は忠興が詫びて着替えてもらった{{Sfn|村井|1976}}。
 
*忠興がある夜彼女の部屋に入ってきて「小夜ふけて入たる物は何やらん」と戯れてうたいかけると、即座に「ともしび消えて閨の星かげ」と答えたとされる{{Sfn|村井|1976}}。
 
== 略歴 ==