「J・R・R・トールキン」の版間の差分

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[[オレンジ自由国]](現在は[[南アフリカ共和国]]の一部)の[[ブルームフォンテーン]]で、イギリスの銀行支店長アーサー・ロウエル・トールキン(1857-1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド) (1870-1904) の間に生まれた。[[1894年]][[2月17日]]生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=23}}</ref>。
 
アフリカに住んでいたとき、庭で[[タランチュラ]]に噛み付かれた<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=22}}</ref>。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共に[[イングランド]]に行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカで[[リューマチ熱]]により亡くなってしまった<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=26}}</ref>。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むために[[バーミンガム]]に行き、[[1896年]]には(現在はホール・グリーンにある)[[{{仮リンク|セアホール]]([[:en:Sarehole|en]])|Sarehole}}に移った。ここは当時[[ウースターシャー]]の村で、現在はバーミンガムの一部である<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=30}}</ref>。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの[[袋小路屋敷]](Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=131}}</ref>。
 
母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=32}}</ref>。[[植物学]]に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちから[[ラテン語]]の基本を教えた<ref name=bio01/>。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムの[[{{仮リンク|キング・エドワード校]]([[:|en:|King Edward's School, Birmingham|en]])}}に入学して、[[バッキンガム宮殿]]の門に掲示された[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力した<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=#306}}</ref>。[[り、学資不足のため{{仮リンク|セント・フィリップス校]]([[:|en:|St Philip's School|en]])、そ}}に一時籍を移て[[オックスフォード大学]]のエクセター学寮([[:en:Exeter College, Oxford|en]])に進むたりもした
 
[[1900年]]、母は[[バプテスト教会|バプテスト]]であった親戚の猛烈な反対を押し切って[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に改宗した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=35}}</ref>ため、全ての財政援助は中断された。その母は[[1904年]]に[[糖尿病]]で亡くなり、トールキンは母が信仰の[[殉教]]者であったと思うようになった<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=44}}</ref>。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、[[C・S・ルイス]]を[[キリスト教]]に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが[[イングランド国教会|英国国教会]]を選び大いに失望することになった<ref>{{harvnb|Carpenter|1978}}</ref>。