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章武王[[元彬]]の長男として生まれた。[[492年]]([[太和 (北魏)|太和]]16年)、秘書郎に任じられた。[[景明]]年間、章武郡王の爵位を嗣ぎ、驍騎将軍の位を受けた。
 
[[506年]]([[正始 (北魏)|正始]]3年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の軍が北魏の淮陽に迫り、梁城を陥落させると、元融は仮節・征虜将軍の位を受け、叔父の中山王[[元英]]の下で別将として南征し、梁城を奪還した。[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史]][[元嵩]]が寿春で殺害されると、元融が行揚州事をつとめた。まもなく洛陽に帰って仮節・征虜将軍・[[并州]]刺史に任じられた。
 
[[515年]]([[延昌 (北魏)|延昌]]3年)、[[宣武帝]]が死去すると、[[司空]]を兼ねた。宗正卿に任じられ、本官のまま行[[瀛州]]事を命じられたが、病を理由に赴任しなかった。しばらくして散騎常侍・平東将軍・[[青州 (山東省)|青州]]刺史に任じられた。召還されて秘書監となった。中護軍に転じ、撫軍将軍の位を受け、河南尹を兼ねた。中護軍のまま征東将軍の位を加えられた。[[523年]]([[正光]]4年)、収奪をほしいままにしたとして、御史中尉による弾劾を受け、官爵を削られた。[[524年]](正光5年)、[[汾州]]・[[夏州]]の[[稽胡|山胡]]が反乱を起こすと、元融は章武郡王の爵位をもどされ、征東将軍・持節・都督に任じられて反乱を討った。元融は山胡と戦って敗れた。後に散騎常侍・[[衛将軍]]・左光禄大夫の位を加えられた。
 
[[526年]]([[孝昌]]2年)、[[鮮于修礼]]が瀛州・[[定州]]で反乱を起こし、[[長孫稚]]らがこれを討ったが、敗北した。元融は[[車騎将軍]]の位を受け、左軍都督として先鋒をつとめ、広陽王[[元淵]]らとともに修礼を討った。北魏軍が交津を渡ると、[[葛栄]]が修礼を殺して自立した。葛栄は白牛邏に進軍し、軽騎を率いて元融を攻撃した。元融は終日苦戦し、外援もなく、敗れて戦死した。享年は46。[[侍中]]・都督雍華岐三州諸軍事・車騎大将軍・司空・[[雍州]]刺史の位を追贈された。まもなく[[司徒]]の位を加えられた。[[諡]]は武荘といった。