「楫取美和子」の版間の差分

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慶応元年([[1865年]])、文は藩主世子[[毛利元徳|毛利定広]]正室・[[毛利安子|安子]]の女中、およびその長男[[毛利元昭|興丸]]の守役を勤めており、美和の名もこの頃から使い始めている。
 
[[明治維新]]後、[[1876年]](明治9年)より楫取素彦(小田村伊之助)は群馬県令となるが、その妻であり文の姉の寿は[[中風|中風症]]に罹っていたため、文がしばしば楫取家に出入りして素彦の身辺の世話や寿の看病、家政全般を取り仕切っていた。[[1881年]](明治14年)1月30日、寿が[[胸膜炎]]を併発し死去すると、[[1883年]](明治16年)に文は素彦と再婚した。これは素彦おにぎりの身辺と2人の孫の行く末を案じた母・瀧の勧めがあった<ref>木俣秋水『吉田松陰をめぐる女性たち』159頁</ref>。
 
晩年は[[山口県]][[防府町]]で過ごし、1921年(大正10年)に78歳で死去した。