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リボーは1952年、母のロマネラが種牡馬[[テネラニ]]と交配するために滞在していたイギリスのナショナルスタッドで生まれた。両馬はリボーの両親でもあり、ともにイタリアの馬産家[[フェデリコ・テシオ]]の生産馬であった。テシオは[[1951年]]にテネラニをロマネラに交配した後イギリスに売却したが、翌1952年の春、もう一度ロマネラにテネラニを交配することを考え、ロマネラをイギリスに送ったという経緯があり、このため血統、関係者共にイタリア色が濃いにもかかわらず、生産国は[[イギリス]]となっている(生産地は[[サフォーク|サフォーク州]][[ニューマーケット]])。テシオは種牡馬を自らの手元に置かない主義であったため、このようなケースは他のテシオの生産馬にも見られる。
 
生後イギリスでの短い滞在ののち、すぐにイタリアに渡ったリボーだったが、子馬のころは大変小柄で、牧場でのあだ名はイタリア語で「ちびっこ」の意を指す'''イル・ピッコロ''' (Il Piccolo) というものであった。テシオも「その資質と優れた馬格は凡馬のものではない」と素質を認める一方、小柄だったため[[クラシック (競馬)|クラシック]]登録をしなかったとされる。また、若い頃は人懐っこく物を隠すなど悪戯好きな側面も見せていたという。テシオはこの仔馬にフランスの画家{{仮リンク|テオデュール=オーギュスタン・リボー|en|Théodule Ribot}}に因み、リボーと名付けた。ちなみにテシオはリボーについて「将来ひとかどの馬になるだろう」と予言していたが、リボーがデビューする2ヶ月前に死去した。
 
デビューに際してはテシオ厩舎のベテラン厩務員の1人マリオ・マルチェシが担当に決まった。彼が後年リボーを選んだ理由について、「チビではあったが賢そうな顔立ちと、きびきびとした動作が気に入った。なにより根性がありそうだった」と語った。やがてマルシェチとリボーの間には語り草になるほどの深い絆が生まれた。
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子馬の頃は小型で、「イル・ピッコロ」(ちびっこ)と呼ばれていたが、引退時の計測では体高162.6cm、胸囲188cm、管囲20.3cmにまで成長し、賢そうな顔と、力強い後ろ脚が特徴的な競走馬になっていた。体高は平均より高く、体重は軽かったと言われている。
 
== エピソード・評価 ==
* 担当厩務員のマリオ・マルチェシとの友情は知られている。また、引退式で騎手カミーチを振り落とし、また時には物を隠したりと悪戯好きな性格の持ち主だった。
* 引退後イギリスに渡る際には国会前で抗議運動が起こった。後イタリアに戻ったが、アメリカにリースされる際にはイタリア政府が絡み、種付け権5件をイタリア側が留保する形で契約が結ばれた。
* 20世紀イタリアのスポーツ選手(ガゼッタ・デッロ・スポルト):第4位
* イタリア最大のスポーツ誌ガゼッタ・デッロ・スポルトが発表した20世紀イタリアのスポーツ選手では第4位に選ばれている。競走馬として異例とも言える高評価である(他国においても人間に交じって上位に選ばれた競走馬の例は少なく、他にアメリカの[[セクレタリアト]](集計元によって10 - 35位)がいる程度)。
* 20世紀イタリアの競走馬:第1位
* 一方競走馬のみを対象にした[[タイムフォーム]]誌(イギリス)のランクでは第5位(142ポイント)になっている。
*[[タイムフォーム]]ランク:142ポンド(20世紀第5位)
*『A Century of Champions』(タイムフォーム):143ポンド(20世紀第3位)
 
== 血統 ==