「サブラー・シャティーラ事件」の版間の差分

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== 事件後 ==
事件が公に明るみに出るや、パレスチナ、イスラエル、そして国際社会全体に大きな衝撃を与えた。
 
1982年12月16日、[[国連総会]]はこの事件を「[[ジェノサイド]]」として非難する決議を反対なしの123か国の賛成多数で可決した([[アメリカ]]、イスラエル、[[カナダ]]、[[イギリス]]などは棄権。[[日本]]は賛成<ref>[http://unbisnet.un.org:8080/ipac20/ipac.jsp?profile=voting&index=.VM&term=ares37123d#focus The situation in the Middle East : resolution / adopted by the General Assembly]国連公式サイト</ref>)。
 
虐殺を手助けしたとも言えるイスラエルの国内でも[[イスラエル共産党|共産党]]やできて間もない[[ピース・ナウ]]などの左派勢力から批判が噴出。しかし、当時国防相として最高責任者の地位にあった[[アリエル・シャロン]]は「イスラエルの手は汚れていない」などと言った。しかし、結局シャロンと参謀総長を務めていた[[ラファエル・エイタン]]が責任を取らされ辞職した。
 
== 関連項目 ==
*[[戦場でワルツを]]