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[[宮澤裕]]・こと夫妻の長男として[[東京]]に生まれた。[[本籍]]地は[[広島県]][[福山市]]<ref name="kantei">[http://www.kantei.go.jp/jp/daijinmeibo/9807kakuryo/04miyazawakiiti.html 宮澤喜一 略歴]</ref>。母・ことは[[法務大臣|司法大臣]]、[[鉄道省|鉄道大臣]]等を歴任した[[小川平吉]]の二女。[[関東大震災]]後、母方の祖父小川平吉の別荘である平塚の「花水庵」で過ごす。父の[[宮澤裕|裕]]は当時[[商船三井|山下汽船]]に勤務していたが、すでに政界を志し、[[広島県]]から国会へ進出しようとして着々と準備を進めていた<ref>[[清宮龍]]著『宮沢喜一・全人像』48頁</ref>。
 
東京高師附属小学校(現・[[筑波大学附属小学校]])、[[武蔵高等学校 (旧制)|旧制武蔵高等学校]](現・[[武蔵大学]]、[[武蔵中学校・高等学校中学校]])を経て東京帝国大学(現・[[東京大学]])[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]][[政治学部|政治学科]]卒業。在学中の[[1939年]]([[昭和]]14年)、第6回[[日米学生会議]]に参加のため渡米した。日本からは、宮澤喜一、[[奈良靖彦]]、苫米地俊博、[[山室勇臣]]ら各大学から男女合わせて48名の大学生が参加、のちの夫人とも知り合ったきっかけとなり、日米首脳会談後のスピーチでも日米学生会議で妻と出会ったことを披露した<ref>[[城山三郎]]著『友情力あり』</ref>。
 
宮澤三兄弟の幼少の頃を知る従姉妹の和田貞子によれば、「三人はいずれも二歳違いで、とても仲の良い兄弟でした。住まいは東京でしたが、夏になると伯父([[宮澤裕|裕]])の故郷であるこの福山に帰ってきて、海水浴などにでかけていました。お母さんのいうことをよく聞き、礼儀正しい子でしたね。とくに喜一先生は小学校高学年のころから議論好きで、何かというと議論していました。高校、東大に通われるころ、私は東京の家にお手伝いにいっていたのですが、そのころは勉強ばかりしていたのが印象的です」という<ref name="keibatup206">[[神一行]]著『閨閥 改訂新版 <small>特権階級の盛衰の系譜</small>』 206頁</ref>。