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{{参照方法|date=2017年4月10日}}
{{基礎情報 武士
'''川手 良則'''(かわて よしのり、[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])- [[慶長]]6年([[1601年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[今川氏]]・[[武田氏]]・[[徳川氏]]家臣。後に[[井伊氏]]の[[家老]]を務めた。[[仮名 (通称)|通称]]は主水。家名は'''河手'''とも書かれる。
| 氏名 = 川手良則
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])
| 死没 = [[慶長]]6年([[1601年]])
| 改名 =
| 別名 = 河手良則、通称:主水
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[今川氏]]→[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]]→[[徳川氏]]→[[井伊直政]]
| 藩 =
| 氏族 = [[山田氏]]→[[川手氏]]
| 父母 = 父:[[山田景隆]]
| 兄弟 =
| 妻 = [[井伊直親]]娘・[[高瀬姫]]
| 子 = 養子:'''''[[川手良列|良列]]'''''([[松平康安]]子)
| 特記事項 =
}}
 
'''川手 良則'''(かわて よしのり、[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]]- [[慶長]]6年([[1601年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[今川氏武将]][[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]][[徳川氏]]家臣。後に[[井伊氏]]の[[家老]]を務めた。[[仮名 (通称)|通称]]は主水。家名は'''河手'''とも書かれる
== 概要 ==
父は[[今川氏]]家臣として[[岡崎城]][[城代]]を務めた[[山田景隆]]。山田氏は[[三河国|三河]]の川手城([[愛知県]][[豊田市]]川手町)を居城としていた。
 
== 概要略歴 ==
良則は今川氏滅亡後は武田氏に仕え、[[山県昌景]]配下として名を挙げた。
父は[[今川氏天文 (元号)|天文]]家臣として元年([[岡崎城1532年]])、[[城代今川氏]]を務めたの家臣・[[山田景隆]]の子として誕生[[山田氏]]は[[三河国|三河]]の[[川手城]]<ref>[[愛知県]][[豊田市]]川手町。</ref>を居城としていた。
 
良則は今川氏滅亡後は武田氏に仕え、[[山県昌景]]配下として名を挙げた。[[甲州征伐|武田氏滅亡]]後は徳川氏家臣となり、[[天正]]10年([[1582年]])に[[徳川家康]]の命で[[井伊直政]]の姉[[高瀬姫]]を娶り、直政に仕える。井伊家中では一門筆頭として、筆頭家老格の[[木俣守勝]]よりも席次は上であった。知行は2500石で、後に4000石となる。[[関ヶ原の戦い]]では[[高崎城]]城代として留守を守った。[[松平康安]]の子の川手良列を養子として跡を継がせたが、[[元和 (日本)|元和慶長]]6年([[16151601年]])、死去。家督は養子・[[大坂夏の陣]]の[[八尾・若江の戦い川手良列|若江の戦い]]で良列は戦死し、その遺児の川手良富も[[寛永]]5年([[1628年]])に若年で早世したため、同家は無嗣断絶となったが継いだ
 
しかし、良列は[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]の[[八尾・若江の戦い|若江の戦い]]で戦死し、良列の遺児・[[川手良富|良富]]も[[寛永]]5年([[1628年]])に若年で早世したため、同家は無嗣断絶となった。
幕末の[[嘉永]]6年([[1853年]])に[[井伊直弼]]の命で、[[新野親良]]の子の河手良貞により川手(河手)家は再興された。
 
幕末の[[嘉永]]6年([[1853年]])に[[井伊直弼]]の命で、[[新野親良]]の子・[[河手良貞]]により川手(河手)家は再興された。
== 参考文献 ==
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 出典 ==
*上田正昭他『日本人名大辞典』(講談社、2001年)
*『三百藩家臣人名事典4』(新人物往来社、1988年)