「ディディエ・ピローニ」の版間の差分

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[[1977年]]には[[フォーミュラ2|ヨーロッパF2選手権]]に参戦(シリーズ3位)。また、スポット参戦した[[モナコグランプリ]]の前座[[フォーミュラ3|F3]]で優勝する。この活躍とエルフの推挙により、1978年に[[ティレル]]からF1デビューすることが決まった<ref group="注釈">エルフはティレルの主要スポンサーを務めていた。</ref>。
 
F1以外では[[1978年のル・マン24時間レース]]において、[[ジャン=ピエール・ジョッソー]]とのコンビで[[アルピーヌ|ルノー・アルピーヌ]] A442B([[:en:Renault Alpine A442|英語版]])を駆り、[[ルノー・スポール|ルノー]]悲願のル・マン初優勝を達成している。また、1977年から[[1978年]]にかけては、日本で[[JAFグランプリ|JAF鈴鹿グランプリ]]や[[富士グランチャンピオンレース|富士GC]]にスポット参戦。なかでも1977年[[11月6日]]のJAF鈴鹿グランプリには3年落ちの[[マーチ・742]]シャシーでの参戦のため予選では9番手であったが、雨となった決勝レースではスタートから5周の間に[[中嶋悟]]、[[桑島正美]]、[[星野一義]]をごぼう抜きする別格の速さを見せつけ28周目までトップを独走し、残り数週で使い古しのBMWエンジンの冷却ホースが痛んだためリタイアするまで首位独走続け、[[リカルド・パトレーゼ]]や[[ケケ・ロズベルグ]]も参戦する中で主役級の話題をさらっ<ref>[[Racing On|レーシングオン]] No.019 1987年11月号 131頁 A DAY IN SCENE 1977 JAF SUZUKA GP([[武集書房]])</ref>
 
=== ティレル時代 ===
; 1978年
第2戦[[ブラジルグランプリ]]で6位に入り、デビュー早々にF1初入賞を達成した。これを含め計5回(5位2回・6位3回)の入賞で7ポイントを獲得した(ランキング15位)新人らしからぬコンスタントな走りを見せたが、ポイントでは円熟期のチームメイト[[パトリック・デパイユ]](34ポイントを獲得)に大きく差をつけられた。
 
; 1979年
第2戦ブラジルグランプリで4位、第5戦[[スペイングランプリ]]で6位に入った後、第6戦[[ベルギーグランプリ]]にて3位初表彰台を記録。しかしマシンの戦闘力不足から、チームメイトの[[ジャン=ピエール・ジャリエ]]共々苦戦し、シーズン中盤以降は久しく入賞から遠ざかることとなった。第14戦[[カナダグランプリ]]で5位、最終戦[[アメリカグランプリ#アメリカ東グランプリ|アメリカ東グランプリ]]で3位に入り表彰台を獲得するなど結果的に前年度の成績上回ったものの(ランキング7位)。リジェからオファーが届きこの年限りでティレルチームを離脱することとなった
 
=== リジェ時代 ===
; 1980年
フランスに本拠を置く[[リジェ]]に移籍。ティレルに比べマシン前年から出来改良が加えられた[[リジェ・JS11|JS11/15]]は競争力よくあり、開幕から予選・決勝ともに好成績を残し、第5戦[[1980年ベルギーグランプリ|ベルギーグランプリ]]では予選2位からF1初優勝を達成した挙げる。また第6戦[[モナコグランプリ]]では初[[ポールポジション|PP]]、第8戦[[イギリスグランプリ]]では初[[ファステストラップ|FL]]を獲得していと飛躍のシーズンとなり、フェラーリなどトップチームからも注視され存在となった
 
8度の入賞(うち初優勝をはじめ表彰台5回)・2PP・2FLを記録し、コンスタントな走りでランキング5位を獲得。エースの[[ジャック・ラフィット|ジャック・ラフィー]]と遜色ない成績<ref group="注釈">優勝1回・2位2回・3位2回・4位1回・5位1回でランク4位。</ref>を挙げた。
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しかし、第12戦[[1982年ドイツグランプリ|ドイツグランプリ]]([[ホッケンハイムリンク]])での土曜午前フリープラクティス中、どしゃ降りの雨で視界不良のコンディションだった中、およそ170マイル(時速273km/h)というハイスピードで前走車のタイヤに乗り上げ宙を舞う大クラッシュを喫して両足複雑骨折の重傷を負い、残る全レースの欠場を余儀なくされた。事故現場にいた者の目撃証言では飛行機事故の現場のようだったとされ、ピローニが命を取り留めていることが不可能と思うしかない現場だったという<ref>INSIDE F1 グランプリの真実 [[ナイジェル・ルーバック]]著 130頁 1982.8.26「ピローニの惨事」[[双葉社]]</ref>。最終的に[[ケケ・ロズベルグ]]にポイントを逆転されてランキング2位に終わり、ワールドチャンピオンを獲得出来なかった。
 
その後必死にリハビリを重ねたピローニは、事故翌年の1983年、ホッケンハイムで西ドイツグランプリに杖を必要としていたものの回復した姿を見せ<ref>INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック著 176頁 1983.8.25「ピローニ12ヵ月後」双葉社</ref>、[[1986年]]に[[リジェ]]チームと[[AGS (F1)|AGS]]チームのマシンをテストで走らせるなど、F1への復帰を望んでいた。1987年のパワーボート事故直後の報道では、翌1988年に向けローラシャシーで参戦している[[ラルース (F1チーム)|ラルース]]チームとF1復帰の契約が内定していたともされる<ref>[[Racing On|レーシングオン]] 1987年10月号 [[武集書房]]</ref>。
 
=== F1以後 ===
その後必死にリハビリを重ねたピローニは、事故翌年の1983年、ホッケンハイムで西ドイツグランプリに杖を必要としていたものの回復した姿を見せ<ref>INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック著 176頁 1983.8.25「ピローニ12ヵ月後」双葉社</ref>、[[1986年]]に[[リジェ]]チームと[[AGS (F1)|AGS]]チームのマシンをテストで走らせるなど、F1への復帰を望んでいた。1987年のパワーボート事故直後の報道では、翌1988年に向けローラシャシーで参戦している[[ラルース (F1チーム)|ラルース]]チームとF1復帰の契約が内定していたともされる<ref>[[Racing On|レーシングオン]] 1987年10月号 [[武集書房]]</ref>
[[1987年]]、水上の[[パワーボート]]レースに転身し世界選手権に出て活躍、一時は本気でレギュラーシートを狙っていたという。しかし、[[8月23日]]の[[サウサンプトン]]沖[[ワイト島]]近郊で行われたパワーボートの世界選手権中、愛機である「COLIBRI号」([[ランボルギーニ]]製V12エンジンをツイン搭載、1500馬力のレーシングパワーボート<ref>レーシングオン No.019 1987年11月号 52頁 F1チャンプを逃した男の非情の海・サーキットから海に場を変え、世界一を目指したピローニの最期 武集書房</ref>)高速で海上で回転覆。同乗していたクルー2名と共に他界した。35歳。[[カンヌ]]のグリモー墓地に埋葬された[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GSln=Pironi&GSfn=Didier+&GSbyrel=in&GSdyrel=in&GSob=n&GRid=13338342&]。パワーボート事故直後の報道では、翌1988年に向けローラシャシーで参戦している[[ラルース (F1チーム)|ラルース]]チームとF1復帰の契約が内定していたともされる<ref>レーシングオン 1987年10月号 武集書房</ref>
 
ピローニの死後に生まれた双子の子供には、双子の母親のカトリーヌ・グーにより「ジル」と「ディディエ」と、2人のファーストネームがつけられた。