「集積回路」の版間の差分

技術の心得がないものにも分かるように書くか根拠が必要
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(技術の心得がないものにも分かるように書くか根拠が必要)
また、1958年には[[ウェスティングハウス]]から「Molectronics」という名称の集積回路の概念が発表され<ref>{{citation|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jiep1985/4/1/4_1_2/_pdf |format=PDF |title=戦後40年のやきもの }}</ref>、1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて[[電気試験所]]でも同年12月に見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえるゲルマニウムのペレット3個を約1cm角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した<ref>{{citation|url=http://www.shmj.or.jp/shimura/ssis_shimura2_06.htm |title=米誌に触発された電試グループ }}</ref><ref>{{citation|url=http://www.shmj.or.jp/shimura/shimura_J_L/shimura2_06_3L.jpg |title=固体回路の一試作 昭和36(1961)年4月8日 電気四学会連合大会}}</ref>。1961年2月にはウェスティングハウスと技術提携した三菱電機から11種類のモレクトロンが発表された<ref name="exhibi719">{{citation|url=http://www.shmj.or.jp/museum2010/exhibi719.htm |title=1960年代初 国産ICのスタート }}</ref>。日本で最初のモノリシック集積回路は東京大学と日本電気の共同開発とされる<ref>{{citation|url=http://www.shmj.or.jp:80/shimura/ssis_shimura2_07.htm |title= 東大グループは「固態型論理回路」}}</ref>
 
著名な集積回路の特許は、米国の別々の2つの企業の、2人の研究者による異なった発明にそれぞれ発行された。[[テキサス・インスツルメンツ]]の[[ジャック・キルビー]]の特許「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月に特許となった({{US patent|3138743}})。[[フェアチャイルドセミコンダクター]]の[[ロバート・ノイス]]の特許「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月に特許となった({{US patent|2981877}})。しかし、「[[キルビー特許]]紛争」などと呼ばれるように(ちなみに「キルビー特許」に対し、ノイスの特許は「プレーナー特許」と呼ばれることがある)多くの議論を発生させることとなった
 
技術的な内容とはほぼ無関係に、業界の権益争いとして、特許優先権委員会においてどちらの特許が「集積回路の特許」として有効であるか、を、法的に認定させる争いが勃発した(技術的な判断が目的なのではなく、あくまで、「法的にどちらが有効か」を認めさせることが目的である)。キルビーの特許出願から10年10か月を経て決着し、ノイスの勝利が確定した。しかし、そのような法的勝利は、実際にはほとんど意味がなかった。前述のように、技術的にはどちらが本質かは明らかであるが、ライセンスビジネス的には、1966年に[[テキサス・インスツルメンツ]]と[[フェアチャイルドセミコンダクター]]を含む十数社のエレクトロニクス企業が集積回路のライセンス供与について合意に達していたからであり、技術と法律とビジネスというものについて、教訓的な事例となっている。またさらに日本では、20年の紆余曲折を経て1989年に特許となったことで莫大な額の請求等を伴う紛争となり「[[サブマリン特許|サブマリン特許制度]]」のたちのわるさを際立たせるという役割を担う結果となった。
実際のところ、それぞれの特許の中身を見ればそれぞれの発明の内容は異なったものであって、どちらの発明が、こんにちの集積回路に至る道の「王道」に当たるのか、は技術の心得がある者には明らかである。しかし、「[[キルビー特許]]紛争」などと呼ばれるように(ちなみに「キルビー特許」に対し、ノイスの特許は「プレーナー特許」と呼ばれることがある)多くの議論を発生させることとなった。
 
技術的な内容とはほぼ無関係に、業界の権益争いとして、特許優先権委員会においてどちらの特許が「集積回路の特許」として有効であるか、を、法的に認定させる争いが勃発した(技術的な判断が目的なのではなく、あくまで、「法的にどちらが有効か」を認めさせることが目的である)。キルビーの特許出願から10年10か月を経て決着し、ノイスの勝利が確定した。しかし、そのような法的勝利は、実際にはほとんど意味がなかった。前述のように、技術的にはどちらが本質かは明らかであるが、ライセンスビジネス的には、1966年に[[テキサス・インスツルメンツ]]と[[フェアチャイルドセミコンダクター]]を含む十数社のエレクトロニクス企業が集積回路のライセンス供与について合意に達していたからであり、技術と法律とビジネスというものについて、教訓的な事例となっている。またさらに日本では、20年の紆余曲折を経て1989年に特許となったことで莫大な額の請求等を伴う紛争となり「[[サブマリン特許|サブマリン特許制度]]」のたちのわるさを際立たせるという役割を担う結果となった。
 
キルビーとノイスは後に、ともに国民栄誉賞を受け、同時に全米発明家の栄誉の殿堂入りをした。
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