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{{出典の明記|date=2014年5月14日 (水) 10:24 (UTC)}}
'''瀬戸焼'''(せとやき)は、[[愛知県]][[瀬戸市]]とその周辺で生産される[[陶磁器]]の総称。日本[[六古窯]]の一つ(瀬戸窯)。東日本で広く流通し、'''瀬戸物'''は陶磁器を指す一般名詞化した。
[[ファイル:Found MUJI Setoyaki (6910176253).jpg|thumb|瀬戸焼(織部釉)の蕎麦猪口]]
[[File:Setoguramuseum1.JPG|thumb|瀬戸蔵ミュージアム]]
'''瀬戸焼'''(せとやき)は、[[愛知県]][[瀬戸市]]とその周辺で生産される[[陶磁器]]の総称。日本[[六古窯]]の一つ(瀬戸窯)。東日本で広く流通し、'''瀬戸物'''は陶磁器を指す一般名詞化した。
 
== 概略史 ==
* [[古墳時代]]中期末([[平安時代5世紀]]後半)に愛知県猿投地区(尾張東部から西三河西部)に日本[[三大古窯]]の一つとされる[[埴輪]]・[[須恵器]]窯である「[[猿投窯|猿投古窯群]]」が誕生した。猿投窯は、[[奈良時代]]に日本初の人工施釉陶器([[灰釉陶器]])を生産し、高級食器として流通、一大窯業生産地となった。しかし、平安時代末期から製品が灰釉陶器から日用雑器([[山茶碗]])へとシフトし、衰退していく。[[考古学]]の研究では、[[10世紀]]後半に猿投窯から周辺地域への窯場の拡散が起こり、これに伴い瀬戸市南部の幡山丘陵でも[[広久手30号窯跡|広久手30号窯]]や[[南山古窯跡群|南山窯]]などでの灰釉陶器生産が開始されたことが判明しており、これが瀬戸における開始成立とされる<ref>[http://www.city.seto.aichi.jp/files/rekishi/newpage3.htm 「瀬戸窯業の発生・灰釉陶器から山茶碗生産へ」瀬戸市公式HP]</ref>。しかし、平安時代後半の[[11世紀]]末から製品が粗略化し、灰釉陶器から無釉の日用雑器([[山茶碗]])生産へとシフトしていく
*伝承では [[鎌倉時代]]の[[13世紀]]中ごろ、[[加藤景正|加藤四郎景正]]が、[[宋 (王朝)|宋]]([[中国]])から施釉陶器の技法を伝えたのが瀬戸焼の創始といわれるが、施釉陶器を産出する瀬戸窯ただ灰釉陶器窯)はこれ以前に成立ており、景正の実在を疑う説もある。ただし、鎌倉時代初頭([[12世紀]]末頃、日本陶器の起源となる瀬戸窯では、灰釉・鉄釉などの本格的施釉陶器生産が始ま再開すという事象も考古学の研究により明らかとなっており([[古瀬戸様式]]の成立)、伝承のモデルとなった人物や出来事が存在した可能性は一概に否定できないともされている<ref>藤澤(2005)P.11~12</ref>古瀬戸様式の器種は中国から輸入される[[磁器]]を模倣したものが多く、代用品として生産・流通したと見られる。鎌倉時代の製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い。
* [[室町時代]]末頃までは[[古瀬戸様式|古瀬戸]]とよばれる。室町時代に入ると椀、皿や鉢といった日用雑器の生産が多くなる。次第に生産拠点が[[美濃国|美濃]]に移る。
*[[桃山時代]]から、黄瀬戸・瀬戸黒・[[志野]]・[[織部]]などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。
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* {{Cite book|和書|author=奥田直栄|title=古瀬戸|publisher=平凡社|series=日本陶磁体系 6|year=1989-8|ISBN=4-582-23506-9|ref=harv}}
* [[尾張名所図会|『尾張名所図会』 第三巻 瀬戸陶器職場]]、1844年
* 藤澤良祐「瀬戸窯跡群」(『日本の遺跡 5』(同成社、2005年12月) ISBN 4-88621-337-5)
 
== 外部リンク ==