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'''徐 琨'''(じょ こん、
== 生涯 ==
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孫策によって[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽]][[太守]]に任命された。[[袁術]]の下で[[広陵郡|広陵]]に赴任していた[[呉景]]が孫策の旗下に加わると、呉景が丹陽太守となり、徐琨は督軍中郎将に任命された。このとき孫策は、袁術から任命された丹陽太守である[[袁胤]]を徐琨に討伐させていたが、徐琨が丹陽太守となると、孫策は徐琨の兵力が大き過ぎることを心配し、手元に置いておく方が何かと都合がいいと考え、嘗て丹陽を統治したこともあり、民に慕われていた呉景に交代させたという(『江表伝』)。
[[200年]]、孫権の[[李術]]討伐に参加し、平虜将軍・広徳侯に昇ったが、孫権が[[黄祖]]と戦ったときに流れ矢により戦死したという
子の徐矯(徐夫人の兄)が跡を継ぎ、広徳侯となった。山越平定で活躍し偏将軍となったが、徐夫人より早く亡くなった。子が無かったため、その弟である徐祚が跡を継いだ。戦功を挙げて蕪湖の督・平魏将軍となった。
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