削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
20行目:
|特記事項 =
}}
'''徐 琨'''(じょ こん、生没? - [[203]]または[[207]]年または[[208年]]<ref>呉志「徐夫人伝」では「琨以督軍中郎將領兵,從破廬江太守李術,封廣德侯,遷平虜將軍。後從討黃祖,中流矢卒」黄祖との戦いが具体的にどの戦いを指しているのかは明である。</ref>)は、[[中国]]の後漢末期の[[武将]]。[[揚州 (古代)|揚州]]呉郡富春県の人。[[徐真]]と[[孫堅]]の妹の子。[[徐矯]]・[[徐祚]]・[[徐夫人]]([[陸尚]]の妻、後に[[孫権]]の妻)の父。
 
== 生涯 ==
29行目:
孫策によって[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽]][[太守]]に任命された。[[袁術]]の下で[[広陵郡|広陵]]に赴任していた[[呉景]]が孫策の旗下に加わると、呉景が丹陽太守となり、徐琨は督軍中郎将に任命された。このとき孫策は、袁術から任命された丹陽太守である[[袁胤]]を徐琨に討伐させていたが、徐琨が丹陽太守となると、孫策は徐琨の兵力が大き過ぎることを心配し、手元に置いておく方が何かと都合がいいと考え、嘗て丹陽を統治したこともあり、民に慕われていた呉景に交代させたという(『江表伝』)。
 
[[200年]]、孫権の[[李術]]討伐に参加し、平虜将軍・広徳侯に昇ったが、孫権が[[黄祖]]と戦ったときに流れ矢により戦死したという<ref>呉志「徐夫人伝」では「琨以督軍中郎將領兵,從破廬江太守李術,封廣德侯,遷平虜將軍。後從討黃祖,中流矢卒」黄祖との戦いが具体的にどの戦いを指しているのかは不明である。</ref>
 
子の徐矯(徐夫人の兄)が跡を継ぎ、広徳侯となった。山越平定で活躍し偏将軍となったが、徐夫人より早く亡くなった。子が無かったため、その弟である徐祚が跡を継いだ。戦功を挙げて蕪湖の督・平魏将軍となった。