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{{Redirect2|イスパニア|エスパーニャ}}
{{基礎情報 国
|略名 = スペイン
|日本語国名 = スペイン王国
|公式国名 = {{lang|es|'''Reino de España'''}}
|国旗画像 = Flag of Spain.svg
|国章画像 = [[ファイル:Escudo de España (mazonado).svg|100px|スペインの国章]]
|国章リンク = ([[スペインの国章|国章]])
|標語 = {{lang|la|''[[プルス・ウルトラ (モットー)|Plus Ultra]]''}}<br/>([[ラテン語]]: 更なる前進)
|国歌 = [[国王行進曲]]
|位置画像 = Spain (orthographic projection).svg
|公用語 = [[スペイン語]]<ref>[[カタルーニャ語]]([[ヴァレンシア語]])、[[バスク語]]、[[ガリシア語]]が該当の自治州においてカスティーリャ語(スペイン語)とともに公用語として認められている。2010年にはそれまでカタルーニャ州内の[[アラン谷]]地域の公用語であった[[アラン語]]がカタルーニャ州全体の公用語に規定された。</ref>
|首都 = [[マドリード]]
|最大都市 = マドリード
|元首等肩書 = [[スペイン君主一覧|国王]]
|元首等氏名 = [[フェリペ6世 (スペイン王)|フェリペ6世]]
|首相等肩書 = [[スペインの首相|首相]]
|首相等氏名 = [[マリアーノ・ラホイ・ブレイ]]
|面積順位 = 50
|面積大きさ = 1 E11
|面積値 = 504,782
|水面積率 = 1.0%
|人口統計年 = 2016
|人口順位 = 29
|人口大きさ = 1 E7
|人口値 = 46,524,943
|人口密度値 = 92
|人口追記 = <ref>{{Cite web |url=http://www.ine.es/prensa/np966.pdf |title=Cifras de Población a 1 de enero de 2016. Datos Provisionales |publisher=[[スペイン国立統計局]] |accessdate=2016-12-11}}</ref>
|GDP統計年元 = 2008
|GDP値元 = 1兆0,951億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=71&pr.y=14&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=184&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])</ref>
|GDP統計年MER = 2008
|GDP順位MER = 8
|GDP値MER = 1兆6,117億<ref name="economy" />
|GDP統計年 = 2008
|GDP順位 = 11
|GDP値 = 1兆3,968億<ref name="economy" />
|GDP/人 = 30,620<ref name="economy" />
|建国形態 = 建国
|確立形態1 = [[カトリック両王|スペイン王国成立]]
|確立年月日1 = [[1479年]][[1月20日]]
|確立形態2 = [[スペイン1812年憲法|立憲君主制]]
|確立年月日2 = [[1812年]][[3月19日]]
|確立形態3 = [[スペイン第一共和政|第一共和政]]
|確立年月日3 = [[1873年]][[2月11日]]
|確立形態4 = [[フランコ体制下のスペイン|フランコ政権]]
|確立年月日4 = [[1939年]][[4月1日]]
|確立形態5 = [[王政復古]]
|確立年月日5 = [[1975年]][[11月22日]]
|通貨 = [[ユーロ]] (&#8364;)
|通貨コード = EUR
|通貨追記 = <ref>[[1999年]]以前の通貨は[[ペセタ]]。</ref><ref>[[スペインのユーロ硬貨]]も参照。</ref>
|時間帯 = +1
|夏時間 = +2
|時間帯追記 = <ref>カナリア諸島はUTC±0を採用。</ref>
|ISO 3166-1 = ES / ESP
|ccTLD = [[.es]]
|国際電話番号 = 34
|注記 = <references />
}}
'''スペイン'''は、[[ヨーロッパ]][[南ヨーロッパ|南部]]の[[イベリア半島]]に位置し、同半島の大部分を占める[[立憲君主制]][[国家]]。西に[[ポルトガル]]、南に[[イギリス]]領[[ジブラルタル]]、北東に[[フランス]]、[[アンドラ]]と国境を接し、[[飛地]]の[[セウタ]]、[[メリリャ]]では[[モロッコ]]と陸上国境を接する。本土以外に、西[[地中海]]の[[バレアレス諸島]]や、[[大西洋]]の[[カナリア諸島]]、[[北アフリカ]]のセウタとメリリャ、[[アルボラン海]]の[[アルボラン島]]を領有している。首都は[[マドリード]]
 
== 国名 ==
[[スペイン1978年憲法]]では正式国名は定められておらず、スペイン語で、'''España'''({{IPA-es|esˈpaɲa||Es-España.ogg}}、エスパーニャ)、'''Reino de España'''(レイノ・デ・エスパーニャ)、'''Estado español'''(エスタード・エスパニョール)の3つが用いられている<ref>スペイン政府、外務省 (Gobierno de España, Ministerio de Asuntos Exteriores y de Cooperación) 発行の文書(日本文、2014年発行)の中で使用されている例(50ページ):[http://www.exteriores.gob.es/Portal/es/PoliticaExteriorCooperacion/MarcaEsp/Documents/PRESENCIA%20DE%20ESPANA%202013%20JPN.pdf#search='%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%AA%9E%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E9%80%A3%E7%9B%9F' 高まるスペインの存在感 世界各地のスペイン企業]</ref><ref>1978年憲法では国名について言及している条文はないが、同憲法内では'''España'''という語は23回使われている。また'''Estado español'''という語は2回使われている。国家を意味するEstado(英語のStateに相当)が大文字となっているため、このEstadoは固有名詞の一部と考えられる。しかし'''Reino de España'''という表現は同憲法内では全く使用されていないが、一般には使われることも多い。({{Cite report|author=Gobierno de España, La Moncloa|authorlink=:es:Gobierno de España|title=Constitución Española|date=|url=http://www.lamoncloa.gob.es/NR/rdonlyres/79FF2885-8DFA-4348-8450-04610A9267F0/0/constitucion_ES.pdf#search='constitucion+espanola'|ref=harv}}参照)
</ref>。
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「España(エスパーニャ)」とは、[[フェニキア語]]で「[[ハイラックス]]の島」を意味する「i-shaphanim」に由来とされ、[[フェニキア人]]が同地に生息していた[[ノウサギ属|ノウサギ]]をそれと誤認したことから生まれたとされる。その後[[古代ギリシア語]]で「Ἱσπανια(Hispania)」、[[古ラテン語]]で「Hispānia」、[[俗ラテン語]]で「Spania」、[[アングロ=ノルマン語]]で「Espayne」と変化していった。
 
「エスパーニャ」という名称は、長らく同地を指す俗称だった。[[1492年]]の王国統合以降でも国王はあくまで連合王国(「カトリック(またはスペイン)君主制国(モナルキア)」と称されることが多かった)の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている諸侯連合だった。1624年宰相[[ガスパール・デ・グスマン|オリバーレス]]は国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年[[ナポレオン・ボナパルト]]の兄ホセの即位時に正式にスペイン国王が誕生した(スペイン国旗が登場したのは1785年)。
 
1978年憲法で、それまで明記されていた[[国号]]が定められなかったのは、[[君主制]]は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。
 
なお、スペイン外務省は[[1984年]]に、「スペイン王国」と「スペイン」を国際条約においては同等と見なすとの法令を出した。現在は国際条約や国際組織の文書、国内の公式文書や外交文書において前者が公式国名として使用される事が多い<ref>[http://noticias.juridicas.com/base_datos/Admin/ai281209-aec.html Acuerdo entre el Reino de de España y Nueva Zelanda], [http://www.mir.es/SGACAVT/derecho/ac/ac13021992.html Acuerdo entre el reino de España y el reino de Marruecos] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110720002802/http://www.mir.es/SGACAVT/derecho/ac/ac13021992.html|date=2011年7月20日}}; [http://t3.gstatic.com/images?q=tbn:POLvL-tJBq8_KM:http://www.motoradictos.com/images/2010/05/permiso-conducir-espana1.jpg&t=1 licenses] [http://sbrabogados.files.wordpress.com/2008/02/carnet_conducir.jpg permissions] [http://noticias.juridicas.com/base_datos/Admin/tue.t6.html Tratado de la Unión Europea] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141125021617/http://noticias.juridicas.com/base_datos/Admin/ai281209-aec.html|date=25 November 2014}}</ref>。
 
== 歴史 ==
{{Main|スペインの歴史}}
 
=== 先史時代から前ローマ時代 ===
[[ファイル:Techo_de_Altamira_(replica)-Museo_Arqueológico_Nacional.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|[[アルタミラ洞窟壁画]]のレプリカ]]
[[アタプエルカ]]遺跡の考古学的研究から120万年前には[[イベリア半島]]に人類が居住していたことが分かっている<ref>{{cite news
|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6256356.stm|title='First west Europe tooth' found|publisher=BBC|date=30 June 2007|accessdate=2008-08-09}}</ref>。3万5000年前には[[クロマニョン人]]が[[ピレネー山脈]]を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部[[カンタブリア州]]の[[アルタミラ洞窟]]壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。
 
[[鉄器時代]]の半島には北東部から南西部の地中海側に[[イベリア人]]が、北部から北西部の大西洋側には[[ケルト人]]が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わり[[ケルティベリア人|ケルティベリア]]文化が生まれている。またピレネー山脈西部には[[バスク人]]がいた。[[アンダルシア州|アンダルシア]]地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在の[[カディス]]近くには[[ストラボン]]の『{{仮リンク|地理誌|en|Geographica}}』に記述される[[タルテッソス|タルテッソス王国]](紀元前1100年頃)が存在していたとされる。
 
紀元前500年から紀元前300年頃に[[フェニキア人]]と[[ギリシャ人]]が地中海沿岸部に[[古代の植民都市|植民都市]]を築いた。[[ポエニ戦争]]の過程で[[カルタゴ]]が一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった<ref name="cong" />。
 
=== ローマ帝国とゲルマン系諸王国 ===
[[ファイル:Merida_Roman_Theatre1.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|[[メリダ (スペイン)|メリダ]]のローマ劇場]]
紀元前202年、[[第二次ポエニ戦争]]の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州[[ヒスパニア]]とし、法と言語と[[ローマ街道]]によって結びつけ、その支配はその後500年以上続くことになる<ref name="hispania">{{cite web
|last=Payne|first=Stanley G.|title=A History of Spain and Portugal; Ch. 1 Ancient Hispania|publisher=The Library of Iberian Resources Online|year=1973|url=http://libro.uca.edu/payne1/spainport1.htm|accessdate=2008-08-09}}</ref>。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった<ref name="cong" />。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。[[キリスト教]]は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した<ref name="cong" />。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている<ref name="hispania" />。
 
ローマの支配は[[409年]]に[[ゲルマン人|ゲルマン系]]の[[スエビ族]]、[[ヴァンダル族]]、[[アラン族]]が、それに続いて[[西ゴート族]]が侵入して終わりを告げた。[[410年]]頃、スエビ族は[[ガリシア]]と北部[[ルシタニア]](現[[ポルトガル]])の地に[[スエビ王国]]([[ガリシア王国]])を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方の[[ドウロ川]]にかけて王国を建てている。[[415年]]頃、西ゴート族が南ガリアに[[西ゴート王国]]を建国し、[[418年]]頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。
 
[[552年]]には[[東ローマ帝国]]が[[ジブラルタル海峡]]の[[制海権]]を求めて南部に飛び地の{{仮リンク|スパニア|en|Spania}}を確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の[[589年]]に[[トレド教会会議]]が開催され、国王[[レカレド1世]]がそれまで西ゴート族の主流宗旨だった[[アリウス派]]から[[カトリック教会]]に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。
 
=== イスラームの支配 ===
<!--[[ファイル:Adolf_Seel_Innenhof_der_Alhambra.jpg|サムネイル|[[ナスル朝]]の首都[[グラナダ]]に建設された[[アルハンブラ宮殿|アランブラ宮殿]]]]-->
[[711年]][[北アフリカ]]から[[ターリク・イブン=ズィヤード]]率いる[[イスラム教|イスラーム勢力]]の[[ウマイヤ朝]]が侵入し、[[西ゴート王国]]は{{仮リンク|グアダレーテの戦い|en|Battle of Guadalete}}で敗れて[[718年]]に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島は[[アラビア語]]で'''[[アンダルス|アル・アンダルス]]'''と呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在の[[アストゥリアス州]]、[[カンタブリア州]]、[[ナバーラ州]]そして 北部[[アラゴン州]])に逃れて[[アストゥリアス王国]]を築いた<ref name="cong" />。
 
イスラームの支配下では[[キリスト教|キリスト教徒]]と[[ユダヤ教徒]]は[[啓典の民]]として信仰を続けることが許されたが、[[ズィンミー]](庇護民)として一定の制限を受けた<ref>{{cite web
|url=http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/anti-semitism/Jews_in_Arab_lands_(gen).html|title=The Treatment of Jews in Arab/Islamic Countries|accessdate=2008-08-13}} See also: {{cite web
|url=http://www.theforgottenrefugees.com/index.php?option=com_content&task=view&id=66&Itemid=39|title=The Forgotten Refugees|accessdate=2008-08-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070928051923/http://www.theforgottenrefugees.com/index.php?option=com_content&task=view&id=66&Itemid=39|archivedate=2007年9月28日|deadurldate=2017年9月}} and {{cite web
|url=http://www.myjewishlearning.com/history_community/Medieval/IntergroupTO/JewishMuslim/Almohads.htm|title=The Almohads|accessdate=2008-08-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090213223723/http://www.myjewishlearning.com/history_community/Medieval/IntergroupTO/JewishMuslim/Almohads.htm|archivedate=2009年2月13日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
<!--[[ファイル:Cordoba_Mezquita.jpg|左|サムネイル|360x360ピクセル|[[後ウマイヤ朝]]の首都[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]に建設された[[メスキータ]]([[モスク]])の内部]]-->
[[シリア]]の[[ダマスカス]]にその中心があったウマイヤ朝は[[アッバース革命]]により[[750年]]に滅ぼされたが、[[アッバース朝]]の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族[[アブド・アッラフマーン1世]]はアンダルスに辿り着き、[[756年]]に[[後ウマイヤ朝]]を建国した。後ウマイヤ朝の[[カリフ]]が住まう首都[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]は当時[[西ヨーロッパ]]最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは[[中東]]や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進んだ。785年コルドバに[[メスキータ]]が、889年グラナダに[[アルハンブラ宮殿]]が建設された。
 
10世紀頃のアンダルスでは{{仮リンク|ムデハル|es|Mudéjar}}(イベリア半島出身の[[ムスリム]])が住民の大半を占めていたと考えられている<ref>[http://libro.uca.edu/ics/ics5.htm Islamic and Christian Spain in the Early Middle Ages. Chapter 5: Ethnic Relations], Thomas F. Glick</ref><ref name="chap2">{{cite web
|last=Payne|first=Stanley G.|title=A History of Spain and Portugal; Ch. 2 Al-Andalus|publisher=The Library of Iberian Resources Online|year=1973|url=http://libro.uca.edu/payne1/spainport1.htm|accessdate=2008-08-09}}</ref>。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカの[[ベルベル人]]が侵入して[[アラブ人]]と戦い、多くの[[ムーア人]]が[[グアダルキビール川]]周辺を中心に沿岸部の[[バレンシア州]]、山岳地域の[[グラナダ]]に居住するようになっている<ref name="chap2" />。イスラーム世界は[[貨幣史#西アジア、アフリカ|銀飢饉]]に苛まれており、[[元 (王朝)|元朝]]が銀を還流させるまで危機がつづいた。
 
11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立する[[タイファ]]諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂をきっかけに、それまで小規模だった[[ナバラ王国]]や[[カスティーリャ王国]]、[[アラゴン王国]]などのキリスト教諸国が大きく領域を広げた<ref name="chap2" />。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入した[[ムラービト朝]]と[[ムワッヒド朝]]が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった<ref name="cong" />。
 
=== 再征服を遂げたカスティーリャ ===
[[ファイル:Manzanares_el_Real-Castillo.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|{{仮リンク|マンサナーレス・エル・レアル|en|Manzanares el Real}}の城]]
722年[[西ゴート王国]]の[[ペラーヨ]]は[[コバドンガの戦い]]に勝利し[[アストゥリアス王国]]を建国した。これがスペイン・キリスト教諸国の拡大、すなわち[[レコンキスタ]](再征服運動:''Reconquista'')の嚆矢であるとされている。数百年にわたるイスラームの支配時期に重なってレコンキスタは進行したが、10世紀のイスラム銀飢饉までは膠着状態にあった。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で[[フランク王国]]に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、[[エブロ川]]と[[ドウロ川]]を境界とする。[[739年]]にはイスラーム勢力は[[ガリシア州|ガリシア]]から追われた。778年、[[ロンスヴォーの戦い]]がおこった。フランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領([[スペイン辺境領]])を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域は[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク地方]]、[[アラゴン州|アラゴン]]そして[[カタルーニャ]]を含んでいる<ref name="cong" />。844年、[[ノルマン人]]がリスボンとカディスを侵犯した。912年から1002年まで、スペイン・キリスト教諸国と後ウマイヤ朝カリフが不断の抗争に明け暮れた。955年[[アブド・アッラフマーン3世]]が[[レオン王国]]と講和した。961年レオン王国から[[カスティーリャ王国]]が事実上独立した。このカスティーリャが以降のレコンキスタを主導することになる。
 
<!--[[ファイル:Battle_of_Las_Navas_de_Tolosa.jpg|左|サムネイル|280x280ピクセル|1212年の[[ナバス・デ・トロサの戦い]]]]-->
1031年に後ウマイヤ朝が滅亡しタイファ諸王国に分裂した。ここでキリスト教諸王国は勢力を南下させた。[[1085年]]に[[トレド]]を奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。[[12世紀]]にイスラーム勢力は一旦は再興したが、それを[[第3回十字軍]]が牽制した。この大遠征は[[東西教会の分裂]]を促したが、東ローマ帝国はイスラーム世界の全盛期から奴隷出身の[[宦官]]に政治を左右されがちであった。1212年[[ナバス・デ・トロサの戦い]]でキリスト教連合軍が[[ムワッヒド朝]]の[[ムハンマド・ナースィル]]に大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。[[1236年]][[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]が、[[1248年]]に[[セビリア]]が陥落し、[[ナスル朝]][[グラナダ王国]]がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった<ref>{{cite web
|url=http://libro.uca.edu/rc/rc1.htm|title=Ransoming Captives in Crusader Spain: The Order of Merced on the Christian-Islamic Frontier|accessdate=2008-08-13}} See also: {{cite web
|url = http://libro.uca.edu/payne1/spainport1.htm
|title = A History of Spain and Portugal; Ch. 4 Castile-León in the Era of the Great Reconquest
|publisher = The Library of Iberian Resources Online
|accessdate = 2008-08-09
|last=Payne|first=Stanley G.|year=1973}}</ref>。
 
[[13世紀]]と[[14世紀]]に北アフリカから[[マリーン朝]]が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀には[[アラゴン王国]]の勢力は地中海を越えて[[シチリア]]に及んでいた<ref>{{cite web |last=Payne|first=Stanley G.|title=A History of Spain and Portugal; Ch. 5 The Rise of Aragón-Catalonia|publisher=The Library of Iberian Resources Online|year=1973|url=http://libro.uca.edu/payne1/spainport1.htm|accessdate=2008-08-09}}</ref>。13世紀、ムーア人王国を除き南スペイン全体はカスティーリャ王国の手におちた。軍団と貴族に恩賞としてラティフンディオが与えられた。この頃にヨーロッパ最初期の大学である[[バレンシア大学]](1212([[1212]]/[[1263年]])と[[サラマンカ大学]](1218([[1218]]/[[1254年]])が創立されている。
 
=== 黒死病にあえぐアラゴン ===
1325年、[[アラゴン王国]]は[[ジェノヴァ共和国]]から[[サルデーニャ]]を奪った。
 
[[1348年]]から[[1349年]]の[[ペスト|黒死病]]大流行によってスペインは荒廃した<ref>{{cite web
|url=http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/a-b/blackdeath.html|title=The Black Death|accessdate=2008-08-13|publisher=[[Channel 4]]}}</ref>。とくにアラゴンの[[バルセロナ]]が直撃を受けた。カタルーニャでは人口の三割が失われた。1346年に造幣されたフローリン金貨は対外債務の増大により海外へ流出し、これを防ぐために悪鋳されていった。クロアット貨は品位が維持され、投機の対象となり、保有する者は退蔵しがちであった。にわかにフランス貨幣が流入し、日常の交換手段として用いられた。王室財政が王領地の減少と莫大な債務にあえぐ一方で、バルセロナ財政も公債発行に追い込まれた。自転車操業の末、1380年代に公債が軒並み償却できなくなった。バルセロナの個人銀行は、公債を引受けていたところをはじめとして連鎖的に倒産した。バルセロナ市当局は1401年に財政を管理下において欧州初の公営銀行を設立した。バルセロナ他多数の地域とは対照的に、アラゴンの[[バレンシア王国]]だけは農産物と羊毛の輸出力を強みとして急速に人口を回復していた。1412年カスティーリャに[[トラスタマラ朝]]が成立した。アラゴンはカスティーリャ内政に干渉したが、しかし逆効果であった。カスティーリャとジェノヴァ共和国の同盟関係は強化される一方であった。1430年、カスティーリャの[[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]と休戦条約をむすび、アラゴン勢力はカスティーリャ内政から締め出された。1453年、カタルーニャ総督にガルセラン・ダ・レケセンス([[:en:Galceran de Requesens y Santa Coloma|Galceran de Requesens y Santa Coloma]])が任命された。彼は商人や手工業者を主体とするブスカ市政を実現した。ブスカは7年にわたり市政を掌握し、保護主義政策を打ち出した。すると輸入業者や地代生活者からなるビガの反発がおこった。ビガはブスカだけでなく王権にも挑戦した。1462年から[[ジローナ]]を起点として、カタルーニャでは内戦がつづいた。ここへ1466年ごろからフランス軍が侵攻しカタルーニャ総督を任命したので、アラゴンは[[イングランド王国]]や[[ブルゴーニュ公国]]と同盟した。1468年、バルセロナの公営銀行が事実上の破綻をむかえた。
 
=== カスティーリャ=アラゴン連合王国 ===
1388年、カスティーリャは遠征してきた[[ジョン・オブ・ゴーント]]の講和に応じた(バイヨンヌ条約)。ドーヴァー海峡は開放された。
 
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[[ファイル:Losreyescatolicos.jpg|右|サムネイル|260x260ピクセル|[[カトリック両王]]、[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]と[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]]]
 
[[1469年]][[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル女王]][[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド国王]]の結婚により、[[カスティーリャ王国]][[アラゴン王国]]が統合された。それまでカスティーリャは[[地中海]]に疎かったが、統合により貿易へ参入した。50年前からの混乱はカスティーリャの経済構造を再編させた。[[名誉あるメスタ会議|メスタ]]が振興され、[[メディナ・デル・カンポ]]の大市では大規模な羊毛取引と国際的な為替取引が行われた。ビスカヤ産の鉄製品も輸出された。そしてアンダルシアのワインやオリーブ油も[[セビリア]]からジェノヴァ商人の手を経て輸出された。[[ア・コルーニャ]]は漁港として繁栄した。スペインは現在も欧州最大の漁業国であり、[[ビーゴ (スペイン)|ビーゴ]]港を主力としている。
 
再征服は最終段階となった。セビリアでは戦利品としての[[黒人奴隷]]が増えていた。1475年に王国は「セビリアの黒人王」を任命し、下級裁判権を与え奴隷間の紛争解決にあたらせた。[[1478年]][[カナリア諸島]]を、そして[[1492年]][[グラナダ王国|グラナダ]]を陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。{{仮リンク|グラナダ条約 (1491年)|en|Treaty of Granada (1491)|label=グラナダ条約}}ではムスリムの信仰が保障されている<ref>{{cite web
|url=http://www.cyberistan.org/islamic/treaty1492.html|title=The Treaty of Granada, 1492|publisher=Islamic Civilisation|accessdate=2008-08-13}}</ref>。この年、イサベル女王が資金を出した[[クリストファー・コロンブス]]が[[アメリカ大陸]]に到達している。またこの年に[[スペイン異端審問]]が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた<ref>[http://www.newscientist.com/article/dn16200-spanish-inquisition-left-genetic-legacy-in-iberia.html Spanish Inquisition left genetic legacy in Iberia]. New Scientist. December 4, 2008.</ref>。その後同じ条件でムスリムも追放された<ref name="cong">{{cite web
|last=Rinehart|first=Robert|coauthors=Seeley, Jo Ann Browning|title=A Country Study: Spain - The Golden Age|publisher=Library of Congress Country Series|year=1998|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/estoc.html|accessdate=2008-08-09}}</ref>。彼らはジブラルタル海峡を渡り[[フェズ王国]]へ逃れた。
 
イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して[[中央集権]]化を進め、またローマ時代のヒスパニア (<i>Hispania</i>) を語源とするエスパーニャ (''España'') が王国の総称として用いられるようになった<ref name="cong" />。
 
=== スペイン帝国の宗教と版図 ===
[[ファイル:Iberian Union Empires.png|thumb|300px|スペイン・ポルトガル[[同君連合]](1580年–1640年)時代の[[スペイン帝国]]の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)]]
 
1489年、[[メジナデルカンポ条約]]。1494年[[トルデシリャス条約]]。1503年セビリアに[[通商院]]が設置された。1504年の勅令で、鉱山を発見した国民が五分の一税を納めることで採掘を認められた<ref name=youichi>石井陽一 [https://ci.nii.ac.jp/naid/110000587653 スペイン鉱業法の一考察] 神奈川法学 17(2/3) 1981年</ref>。ただし別の勅令で富鉱(minass ricas)は王室が独占するところとなった。
[[アントウェルペン]]が[[帝国郵便]]を介してスペインと結ばれたころであった。[[1516年]]、[[ハプスブルク家]]のカール大公がスペイン王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]として即位し、[[スペイン・ハプスブルク朝]]が始まる。カルロス1世は[[1519年]]に[[神聖ローマ皇帝]]カール5世としても即位し、[[反宗教改革]]の擁護者となった。すると[[コムニダーデスの反乱]](1520([[1520]] - [[1521年]])がおこった。1538年[[プレヴェザの海戦]]で[[シナン・レイース]]が[[オスマン帝国]]の勝利に貢献した。
 
16世紀前半に[[エルナン・コルテス]]、[[ペドロ・デ・アルバラード]]、[[フランシスコ・ピサロ]]をはじめとする[[コンキスタドーレス]]が[[アステカ文明]]、[[マヤ文明]]、[[インカ文明]]などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民は[[インディオ]]と呼ばれ、奴隷労働によって[[金]]や[[銀]]を採掘させられた。[[洋銀]]が[[ポトシ]]や[[グアナフアト]]の銀山で鋳造された。金銀は1552年からスペイン帝国の外へ流出した。オスマン帝国や[[イギリス]]との戦争によって流出は加速した。それをイギリスや[[オランダ]]が蓄積した([[資本の本源的蓄積]])。ここで洋銀が[[金銀比価]]に影響を与えはじめた。
 
スペイン帝国は[[ラテンアメリカ]]の従属と低開発を規定した([[アシエンダ制]])<ref>[[エドゥアルド・ガレアーノ]]『[[収奪された大地_ラテンアメリカ五百年]]』大久保光夫訳 新評論 1986</ref>。最盛期の[[スペイン帝国]]は[[南アメリカ]]、[[中央アメリカ]]の大半、[[メキシコ]]、[[北アメリカ]]の南部と西部、[[フィリピン]]、[[グアム]]、[[マリアナ諸島]]、[[北イタリア]]の一部、[[南イタリア]]、[[シチリア島]]、北アフリカのいくつかの都市、現代の[[フランス]]と[[ドイツ]]の一部、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]、[[オランダ]]を領有した<ref>{{cite web
|last=Payne|first=Stanley G.|title=A History of Spain and Portugal; Ch. 13 The [[Spanish Empire]]|publisher=The Library of Iberian Resources Online|year=1973|url=http://libro.uca.edu/payne1/spainport1.htm|accessdate=2008-08-09}}</ref>。また、[[1580年]]に[[ポルトガル王国]]の[[エンリケ1世 (ポルトガル王)|エンリケ1世]]が死去し[[アヴィシュ王朝]]が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねた。
 
=== ハプスブルク朝の経済と戦争 ===
<!--[[ファイル:Portrait_of_Philip_II_of_Spain_by_Sofonisba_Anguissola_-_002.jpg|サムネイル|フェリペ2世]]-->
カルロス1世(1516([[1516]] - [[1556年]])と[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]](1556([[1556]] - [[1598年]])の治世に、スペインは世界で初めて「[[太陽の沈まない国|太陽の没することなき帝国]]」となった。海上と陸上の探検が行われた[[大航海時代]]であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの[[植民地主義]]が始まった。探検者たちは[[貴金属]]、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期は[[スペイン黄金世紀]]と呼ばれる。[[十分の一税]]の徴収記録によれば、16世紀を通じて本土の人口と農業生産量が増加した。その一方で新世界の開拓者は耕作しなかった。スペインは食料生産が追いつかず、輸入元へ支払った貨幣を国内で費消するよう規制していた。しかし破綻して、1552年カスティーリャ王国がついに貴金属の輸出を許した。1559年[[カトー・カンブレジ条約]]。[[1561年]]、フェリペ2世は宮廷を[[マドリード]]に移した。以後マドリードは現在までスペインの首都である。
 
16世紀後半からは戦乱の連続であった。[[スペイン領ネーデルラント|ネーデルラント]]の反乱([[八十年戦争]])(1568)([[1568]] - [[1648年]])、{{仮リンク|モリスコの反乱|en|Morisco Revolt}}(1568([[1568]])、{{仮リンク|オスマン・ハプスブルク戦争|en|Ottoman–Habsburg wars|label=オスマン帝国との衝突}}([[レパントの海戦]], 1571年)、[[英西戦争 (1585年)|英西戦争]](1585([[1585]] - [[1604年]])、[[モリスコ追放]](1609([[1609]])、そして[[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|フランス・スペイン戦争]](1635([[1635]] - [[1659年]])が起こっている。
 
16世紀末から[[小氷期]]の17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。さらに、[[プロテスタント]]の宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった<ref>{{cite web
|url=http://libro.uca.edu/payne1/payne15.htm|title=The Seventeenth-Century Decline|accessdate=2008-08-13|publisher=The Library of Iberian resources online}}</ref>。
<!--[[ファイル:Spanish_Galleon.jpg|左|サムネイル|247x247ピクセル|16世紀のスペインの[[ガレオン船]]]]-->
1588年[[ガレオン船]]で編成された[[無敵艦隊]]が[[イギリス|英国]]に敗れた([[アルマダの海戦]])。[[三十年戦争]](1618([[1618]] - [[1648年]])にも部隊を派遣。[[白山の戦い]]の勝利に貢献し、[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]では戦勝の立役者となった。莫大な財政援助も行い、スペインは神聖ローマ皇帝軍をよく支えた。スペインは皇帝軍の支援を期待していたが、しかし[[八十年戦争]]や[[マントヴァ公国]]継承戦争で皇帝軍はスペインへ友軍を派遣しなかった。戦争の終盤には[[サヴォワ]]でフランスに敗北し手痛い打撃を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
 
[[1640年]]には[[ポルトガル王政復古戦争]]により[[ブラガンサ朝]]ポルトガルが独立し、[[1648年]]には[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]独立を承認、[[1659年]]にはフランス・スペイン戦争を終結させる[[ピレネー条約]]を不利な条件で締結した。1680年の[[インディアス]]法令集成からは、王室が富鉱を独占する規定がなくなり、五分の一税を払うだけで採掘が許された<ref name=youichi />。スペインの黄金時代は終わりを告げた。
 
=== アンシャン・レジームとナポレオン ===
[[スペイン継承戦争]](1701([[1701]] - [[1713年]])は広範囲の国際紛争かつ内戦でもあり、欧州でスペイン帝国の版図を縮小した<ref name="cong" />。そこで新たに[[ブルボン家]]が王位に就き、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が連合王国の王位を統合した<ref name="cong" />。[[ユトレヒト条約]]と[[ラシュタット条約]]により[[スペイン・ブルボン朝]]が成立した。1717年、通商院を[[カディス]]へ移転した。1735年、[[両シチリア王国]]を領土に加えた。
 
1755年[[リスボン大地震]]。1759年[[啓蒙専制君主]][[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]が即位した。25年もナポリ王であった彼は、財務大臣に[[レオポルド・デ・グレゴリオ]](エスキラーチェ侯爵)を起用した。1765年7月、侯爵は穀物の最高取引価格設定を廃して流通を自由化した。するとマドリードのパン価格は1761年と比べておよそ二倍となった。そして1766年エスキラーチェ暴動がおきた([[:es:Motín de Esquilache|Motín de Esquilache]])。民衆は侯爵の罷免と食糧価格の引き下げにとどまらず、マドリード警備兵と服装取締令の廃止を要求した。王は自ら宮廷のバルコニーに立って群衆の要求を呑んだ。暴動は勢いづいて全国へ伝播していった。1767年2月の勅令が、暴動の首謀者として全土から[[イエズス会]]が財産没収のうえ追放された。なお、英仏の[[啓蒙思想]]は{{仮リンク|ガスパール・メルチョール・デ・ホベジャーノス|es|Gaspar Melchor de Jovellanos|en|Gaspar Melchor de Jovellanos|label=ホベジャーノス}}や、{{仮リンク|ベニート・ヘロニモ・フェイホー|es|Benito Jerónimo Feijoo|en|Benito Jerónimo Feijóo y Montenegro|label=フェイホー}}によって輸入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築いた。18世紀後半、貴族と教会が農法の啓蒙活動を展開した([[:es:Sociedades económicas de amigos del país|Sociedades económicas de amigos del país]])。貿易も急速に成長し、[[アメリカ独立戦争]]では[[パトリオット (アメリカ革命)|アメリカ独立派]]に軍事援助を行った<ref>{{cite web
|last=Gascoigne|first=Bamber|title=History of Spain: Bourbon dynasty: from AD 1700|publisher=Library of Congress Country Series|year=1998|url=http://www.historyworld.net/wrldhis/PlainTextHistories.asp?HistoryID=ab50&ParagraphID=iss#iss|accessdate=2008-08-09}}</ref>。
 
18世紀スペインの人口増加率は地域格差を示した。すなわち農村部が栄えた。[[バレンシア]]は1718年から1794年の間に、その人口が25万強から93万強となった。住民数が十万を超えた都市はマドリードとバルセロナだけであった。[[バリャドリッド]]やブルゴスも衰退した。しかしラティフンディオは、そこを[[メリノ種]]の大群が往来し、小麦とオリーブ栽培は結果として粗放となって収量が極度に低いものとなった。世紀末に近づくにつれて飢饉が長期化した。1756年から1773年で小麦輸入量は1730万ブッシェルにのぼった。
182行目:
セビリア荘園コルティーホ(Cortijo)の労働力は全裸同然の日雇いブラセロス(Braceros)が主力であった。
 
1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた<ref name=youichi />。1789年[[フランス革命]]。1793年スペインが[[フランス第一共和政]]と争った([[フランス革命戦争]])。1796年スペインは[[第二次サン・イルデフォンソ条約|サン・イルデフォンソ条約]]を結んだ。共和政に破れたスペインは属国としてイギリス・ポルトガルに宣戦布告した。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いる[[フランス第一帝政]]とも関係を維持した。1805年[[スペイン海軍]]・[[フランス海軍]]は[[イギリス海軍]]に破れた([[トラファルガーの海戦]])。[[ナポレオン戦争]]は[[スペイン領フロリダ]]をふくむアメリカ植民地との貿易を遮断した。主戦場の一つとなったカタロニアで綿工業がほぼ壊滅した。
 
=== 教会財産の循環構造 ===
<!--[[ファイル:El_Tres_de_Mayo,_by_Francisco_de_Goya,_from_Prado_in_Google_Earth.jpg|サムネイル|320x320ピクセル|[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]画「[[マドリード、1808年5月3日]]」。[[スペイン独立戦争]]の一局面を描いている。]]-->
[[1808年]]3月ブルボン朝の[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]が退位させられ、ナポレオンの兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]がホセ1世としてスペイン国王に即位した。この傀儡国王は国辱とみなされ、即座に[[マドリード]]で反乱が発生、全土へ拡大した([[スペイン独立戦争]])<ref>(Gates 2001, p.20)</ref>。同年5月3日の虐殺は有名な絵画となっている([[フランシスコ・デ・ゴヤ]]画「[[マドリード、1808年5月3日]]」)。ナポレオンは自ら兵を率いて介入したが、スペイン軍の[[ゲリラ]]戦術と[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]率いる英葡軍に苦戦した。公爵には[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]が戦費を配達した。ホセ1世は1808年12月に封建制を廃止する政令を出していた。1811年8月の政令で貴族の特権的領分は各自治体のものとなった。ガリシアやバレンシアで農民が補償を求めて政令を解釈しようと、社会的緊張や暴動を引き起こした。カディスで[[スペイン1812年憲法]]が制定された。1813年に、政令の解釈を調停する委員会が設置された。1814年5月の政令で3年前の政令が撤回された。フランス勢力はスペインから駆逐され、ブルボン家のフェルナンド7世が復位した<ref>(Gates 2001, p.467)</ref>。そして[[絶対主義]]への[[反動]]政策を採った。
 
1820年[[ラファエル・デル・リエゴ]]将軍が[[スペイン立憲革命]]を達成した。このとき1812年憲法が復活した。貴族と教会がなお議会に干渉し革命同年の法律を制定した。十分の一税が廃され、しかし各種公課は金納となった。メスタが不当な利益を得て、零細農民が土地を追われた。一連の法律は1923年まで有効に運用された。1823年にリエゴ将軍は処刑された。[[ウィーン体制]]の崩壊を恐れて[[神聖同盟]]がスペインに干渉したのであった。1825年[[リベルタドーレス]]が南米最後の植民地[[ボリビア]]を独立させた。[[アメリカ大陸]]でスペインは[[キューバ]]と[[プエルトリコ]]以外の植民地を失った。1825年スペイン鉱業法は1783年の鉱業条例に影響された<ref name=youichi />。
 
1833年、第一次[[カルリスタ戦争]]。自由主義勢力が[[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン|マリア・クリスティーナ]]に味方した。マリアの故郷両シチリア王国は[[カール・マイアー・フォン・ロートシルト]]が財政を支えていた。絶対主義者たちカルリスタは貴族と教会であった。1835年6月に[[修道院]]は原則として国有化された。それは[[外債]]を償却するため競売にかけられ、貴族のものとなった。1845年までに教会財産の約3/4が処分された。[[バレアレス諸島]]の場合99%が人手に渡った。事実上のラティフンディオは財政に寄与した。個人としての貴族と、カスティーリャ運河会社([[:es:Canal de Castilla|Canal de Castilla]])がその経営者であった。[[1848年革命]]がウィーン体制を混乱させた。1851年3月、バチカンの[[教皇庁]]と協定した。教皇は過去における財産没収の合法性を認めた。スペインは教会が[[モーゲージ|合法的手段]]で財産を回復する権利を認め、未だ払い下げていない資産を返還、さらに教区の司祭に対して年俸を支給することに同意した。
 
=== 地下資源と植民地と財政主権の喪失 ===
1855年5月の法律がわずかな例外を除いて市町村の共有地をふくむ全ての永代所有地について売却を制度化した。競売の初年度に売却益の一定額が不時の財政赤字に備え積み立てられることになった。それ以降について、売却益の半分が公債の償還に充てられ、残り半分が公共事業へ支出されることとなった。1855年から1868年の間に処分された土地は、競売価格で割合を掲げると、共有地50%、教会財産30%、国家または修道会の慈善事業に属する土地ないし[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|ドン・カルロス]]といった個人からの没収地が20%であった。1856年の銀行諸法が複数発券銀行制を採用し、やがては都市ごとに発券行がおかれた。そして1856年の信用会社法はクレディ・モビリエの定款をモデルとした。これに沿ってクレディト・モビリアリオ([[:es:Banesto|Sociedad General de Crédito Mobiliario Español]])が設立された。大勢のスペイン貴族とペレール兄弟と[[フランス銀行|200家族]]が重役となった。スペインに鉄道熱がおこり、このとき[[ロスチャイルド家]]のサラゴサ・アリカンテ鉄道が誕生した。1866年バルセロナ証券取引所の鉄道株が暴落した。そしてにわかに土地競売が勢いを増した。1868年、飢饉とともに第三次カルリスタ戦争がおこった。この市民革命で成立した臨時政府が、最大の水銀鉱山[[アルマデン]]を担保にロスチャイルド家から借款を得た<ref name=youichi />。1869年の鉱業法がスペインの鉱産資源を散逸させた。鉄鉱石がイギリスと[[ベルギー]]のものとなった。鉛は英仏の銃弾となった。亜鉛は[[ベルギー国立銀行|コッカリル]]などベルギー資本が独占するところとなった。銅と黄鉄鉱は英国資本が手中におさめた。フランスが採掘する[[アストゥリアス州]]の石炭は需要の不足に苛まれた。1870年サヴォイア家の[[アマデオ1世 (スペイン王)|アマデオ1世]]が即位した。1873年スペイン史上初の共和制移行がみられた([[スペイン第一共和政]])。そしてロスチャイルドが[[リオ・ティント]]を買収した。翌1874年スペインは経済界に歓迎されて[[スペイン王政復古|王政復古]]、[[スペイン銀行]]に紙幣発行の独占権を与えた。1876年、新憲法発布の年に、カルリスタが[[ネルビオン川]]の左岸を放棄した。するとビルバオ港からの鉄鉱石輸出量が大幅に増えた。2年後、[[第一次キューバ独立戦争]]が終結した。1880年キューバに対する奴隷漸廃法が成立した。翌年に保守党のカノバス・デル・カスティーリョが失脚した。1883年[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]派が弾圧された。1884年[[スペイン領サハラ]]を獲得した。1885年カタロニアでネアブラムシが発生してブドウ酒輸出量を立ち直れないくらいに減らした。1890年[[ジーメンス・ウント・ハルスケ]]のカタロニア支店が設置された。1893年[[モロッコ]]へ出兵した。1894年[[AEG]]がバルセロナの電力会社(Sociedad Española de Electricidad)を買収した。1898年[[ハバナ]]で[[アメリカ海軍]]の[[メイン (ACR-1)|メイン]]号が爆沈した。そこで[[米西戦争]]が勃発し、敗北したスペインはキューバと[[フィリピン]]の独立を許した。キューバから移民とその貯蓄が戻ってきてバスクの工業を強化した。カタロニアの通商は麻痺した。米西戦争は「大惨事("El Desastre")」として語り継がれた。敗戦の衝撃から「{{ill2|98年の世代|en|Generation of '98}}」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。その一人ホアキン・コスタ([[:es:Joaquín Costa|Joaquín Costa]])は水力政策を国家資本で主導しようと画策したが、売国的な財政政策に阻まれ挫折してしまった。鉱石輸出のピークたる1899年には、541万トンの鉱物がビルバオ港から積み出されたが、全国の産出量は861万トンにすぎなかった。1900年ごろ、{{仮リンク|スペイン領ギニア (植民地)|en|Spanish Guinea|label=スペイン領ギニア}}([[赤道ギニア]])を獲得した。
 
=== アンダルシアの三十年闘争 ===
1904年アンダルシアでゼネストの嵐が吹き荒れた。1906年スペインは超保護関税を採用した。これは[[ビスカヤ高炉]]社長のパブロ・デ・アルソラ([[:es:Pablo de Alzola y Minondo|Pablo de Alzola]])が精力的に働きかけた結果であり、それまで政府は近代化政策をことごとく頓挫させていた。[[1907年恐慌]]がスペインを刺激した。1908年11月[[ヴィッカース]]とコミーリャス侯爵([[:es:Claudio López Bru|Claudio López Bru]])の率いる軍需産業に対して、アントニオ・マウラ([[:es:Antonio Maura|Antonio Maura]])のスペイン政府は2億ペセタの契約を与えた。ヴィッカースには死の商人[[バジル・ザハロフ]]が出入りした。彼はスペイン皇女と結婚する男であった。1910年からストライキの件数が倍増していったが、スペイン労働者の大多数は労組に加入していなかった。1912年{{仮リンク|スペイン領モロッコ|en|Spanish Protectorate of Morocco}}を獲得した。スペインは[[第一次世界大戦]]を中立で乗り切ったが、スペインの軍需品輸出は「[[スペインかぜ]]」の流行に一役買い、スペイン経済は従って戦後不況を免れなかった。農業は作物輸出と肥料輸入の両方が[[無制限潜水艦作戦]]で行えなかった。1919年5月、超反動政治家のシエルバ([[:es:Juan de la Cierva y Peñafiel|Juan de la Cierva y Peñafiel]])は軍をコルドバに派遣して南部のストライキを弾圧した。1921年、[[第3次リーフ戦争]]でスペインは軍事的大損害を出した。1922年マウラ政府が退陣した。1923年から1930年まで、[[ミゲル・プリモ・デ・リベラ]]将軍の{{仮リンク|愛国同盟|en|Spanish Patriotic Union}}が軍事独裁政権を樹立した。将軍はカタロニアの自治を廃した一方で、ラティフンディオの所有者とは協調した。1926年フランス軍の援軍を得てリーフ戦争を鎮圧した。この同年から水利技師ロレンソ・パルド([[:es:Manuel Lorenzo Pardo|Manuel Lorenzo Pardo]])が天才的采配をふるい、7万2000ヘクタールの灌漑農地を新たに開拓し、また水力発電量の倍化に貢献した。1927年にプリモ将軍は石油専売会社を創設した([[:es:CAMPSA|CAMPSA]])。1930年秋にアンダルシアが異常旱魃にみまわれ、軍事政権に対する国民の不満が噴出した。翌1931年[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]が亡命して君主制が崩壊した。{{仮リンク|スペイン1931年憲法|en|Spanish Constitution of 1931}}が制定され、[[スペイン第二共和政]]が成立した。第二共和政は[[バスク州|バスク]]、[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]そして[[ガリシア州|ガリシア]]に自治権を与えた。共和政下では[[女性参政権]]も認められた。スペイン銀行が当時の恐慌を[[世界恐慌]]と切り離して論じた。しかしアンダルシア低地には1930年と1931年の数ヶ月で20万人の失業者がいた。1931年に失業保険国民金庫(Caja Nacional contra el Paro Forzoso)が設立された。1933年までに同金庫に割り当てられた予算額は、年間100万ペセタを超えず、国家予算の5厘に満たなかった。失業保険国民金庫は、失業保険を実施している労働者団体に貸し付けることしかできなかった。農地改革にはやる気が全く見えなかった。
 
=== スペイン内戦と分断経済 ===
<!--[[ファイル:Bundesarchiv_Bild_102-09411,_Primo_de_Rivera_und_der_König_von_Spanien.jpg|サムネイル|330x330ピクセル|国王[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]と[[ミゲル・プリモ・デ・リベラ]]将軍(1930年)]]
[[ファイル:Dabrowszczacy_przysiegaja_wiernosc_sprawie_Republiki.jpg|左|サムネイル|[[スペイン内戦]]に参戦した[[国際旅団]]の[[ポーランド人]][[義勇兵]]]]-->
206行目:
8月初め共和政はカタロニア、バスク、アストゥリアスといった主要工業地帯のすべてを手中におさめていた。農業地帯では新カスティーリャ、レバンテ、アンダルシア東部、アラゴンおよびエストレマドゥーラの一部がその勢力下にあった。共和政は、軽工業と重工業をほぼ独占していたが、食料は園芸作物・オリーブ・かんきつ類の生産に特化している地域へ依存した。ブルゴスを拠点とする反乱軍は、勢力圏内で全国小麦生産の2/3と、じゃがいも・野菜の半分以上と、砂糖の九割を生産した。反乱軍は工業生産の不足を解消するため、8月ビスカヤに猛攻を仕掛け12月に制圧した。ビスカヤはスペイン国民総生産36%の源泉であった。金融制度も分断された。共和政はスペイン銀行の準備金46.7億ペセタを9月にモスクワへ送った。反乱軍はスペイン銀行から90億ペセタを超える貸付をうけた。偏った二つの経済圏は外国の支援も需要した。共和政は[[ソビエト連邦]]と[[国際旅団]]の支援を受けた。反乱軍は[[ナチス・ドイツ]]と[[イタリア王国]]とクラインワート(現[[ソジェン]])の支援を受けた。スペインは甚大な物的人的損害を被った。50万人が死亡<ref>[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/spain/3212605/Spanish-Civil-War-crimes-investigation-launched.html Spanish Civil War crimes investigation launched], Telegraph, October 16, 2008</ref>、50万人が国を捨てて亡命した<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/2809025.stm Spanish Civil War fighters look back], BBC News, February 23, 2003</ref>。スペインは社会基盤も破壊され国力を喪失した。このようにして反乱軍は勝利した。
 
=== フランシスコ・フランコとスポンサー ===
[[フランコ体制下のスペイン]]は一応ファランヘ党の[[一党制]]であったが、フランコにさからう党員は投獄された。プリモ将軍の愛国同盟を吸収したファランヘ党は、[[反共主義]]・[[カトリック教会|カトリック主義]]・[[ナショナリズム]]を掲げた。1938年の労働憲章はイタリアのそれを土台としていた。[[第二次世界大戦下のスペイン]]は[[枢軸国]]寄りであり([[フランキスモ]])、ソ連と戦うための[[義勇兵]]として[[ナチス・ドイツ]]に[[青師団]]を派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。1939年、全国産業公社([[:en:Instituto Nacional de Industria|Instituto Nacional de Industria]])を創設した。これはイタリアの産業復興公社([[:en:Istituto per la Ricostruzione Industriale|IRI]])を真似た公営コンツェルンであった。1940年6月にアメリカが1億ドルの借款を申し入れてきたが、フランコはすぐに拒否した。戦時中、全国産業公社は20社を支配する軍産複合体に成長した一方で、フランコの統制経済が小麦生産量を激減させた。戦後1947-8年[[アルゼンチン]]から大量に買い付けて国民が命をつないだ。1949年にファランヘ党が国民運動に改称した。ファシズム体制のスペインは政治的・経済的に孤立していたが、1953年9月アメリカと相互防衛条約をむすんだ。このころから開発を目的とした農地整理が行われたが、再分配は行われなかったので、アンダルシアのラティフンディオは健在であった。工業政策が繊維部門の過剰生産を誘導した。1954年、法令で公共部門の賃金を引き上げた。インフレ圧力が高まって資本が逃避した。1955年スペインは[[国際連合]]に加入した。1956年に土地法([[:es:Ley del Suelo de España|Ley del Suelo de España]])を制定。1957年モロッコとの間で[[イフニ戦争]]([[:en:Ifni War|Ifni War]])が勃発した。[[1958年]]冬までに、外貨準備が僅か1000万ドル、経常収支純赤字6000万ドルをかかえた。イタリアの債権国がスペイン経済に干渉していた。1958年スペインは[[欧州経済協力機構]]・[[国際通貨基金]]・[[国際復興開発銀行]]に加盟した。この同年、[[フランス銀行]]元副総裁ジャック・リュエフがスペインに招かれていた。欧州経済協力機構と国際通貨基金の使節団もである。彼らの審議結果は、1959年7月と8月に公布された一連の政令となり、スペイン経済の青写真となった。デフレ政策とペセタ切り下げが実施された(1ドル60ペセタ)。自給自足をするのかしないのか優柔不断であったフランコは、ここで一連の法律を制定し外資を誘致する姿勢を前面に押し出した。1959年の経済計画のために外国から総額4.2億ドルの資金援助が寄せられた。内訳の一部を紹介しよう。欧州経済協力機構からのクレジット1億ドル。国際通貨基金引き出し権7500万ドル。チェース・マンハッタン(現[[JPモルガン・チェース]])および[[シティバンク|ファースト・ナショナル・シティ]]両行からの商業信用7000万ドル。[[合衆国輸出入銀行]]からの借款3000万ドル。1959年に[[バスク祖国と自由]](ETA)が[[バスク民族主義]]を掲げて結成された。1953-61年の間に、スペインは経済援助だけで6億ドル強の贈与と4億ドルの借款を受け、さらに軍事援助として4億3680万ドルも受け取った。1962年から1968年にかけて、アメリカの援助額は大幅に減少するとともに、借款が贈与の7倍となった。利子以外にも、米国製品を購入するという負担が借款にはつきまとった。1968年10月12日スペインは[[赤道ギニア]]の独立を認めた。フランコ時代の末期に外資の参加割合が最も大きかった産業部門は、化学・食品加工・鉄鋼・非鉄金属等であった。スペイン全体が経済特区と化していた。1973年ETAがフランコの後継者と目されていた[[ルイス・カレーロ・ブランコ]]首相を暗殺した。
 
=== ナショナリズム衰退と金融スキャンダル ===
[[1975年]][[11月22日]]にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により [[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス王子]](アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、[[王政復古]]がなされた。1976年スペインのエネルギー赤字は45億ドルにのぼった。これは前年比で9%の増加であった。[[オイルショック]]がスペイン経済に追い討ちをかけて、国際収支赤字は1975年の35億ドルから1976年の43億ドルへと悪化した。[[アドルフォ・スアレス]]政権は野放図な金融緩和に走った。1977年10月モンクロア協定([[:es:Pactos de la Moncloa|Pactos de la Moncloa]])が調印された。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、[[スペイン1978年憲法]]の制定により民主化が達成され、スペイン王国は[[制限君主制]]国家となった。[[1981年]]2月23日には軍政復帰を目論む[[アントニオ・テヘーロ]]中佐ら一部軍人による[[クーデター]]未遂事件が発生したものの、毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、この事件は無血で鎮圧された ([[23-F]])。民主化されたスペインは[[1982年]]に[[北大西洋条約機構]](NATO)に加入、同年の[[1982年スペイン議会総選挙]]により、[[スペイン社会労働党]] (PSOE) から[[フェリペ・ゴンサレス]]首相が政権に就き43年ぶりの[[中道左派|左派]]政権が誕生した。[[1986年]]には[[ヨーロッパ共同体]](現在の[[欧州連合]])に加入。[[1992年]]には[[バルセロナオリンピック]]を開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインは[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク地域]]分離運動の[[バスク祖国と自由|ETA]]によるテロ活動に長年悩まされている。1982年に首相に就任したゴンサレスは14年に亘る長期政権を実現していたが、[[1996年スペイン議会総選挙]]にて[[中道右派|右派]]の[[国民党 (スペイン)|国民党]] (PP) に敗れ、[[ホセ・マリア・アスナール]]が首相に就任した。
 
[[2002年]][[7月18日]]、{{仮リンク|ペレヒル島危機|en|Perejil Island crisis}}が起こり、[[モロッコ]]との間で緊張が高まったが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の仲裁で戦争には至らなかった。同年9月、[[ホセ・マリア・アスナール|アスナール]]首相が[[イラク戦争]]を[[非常任理事国]]として支持、2003年3月のイラク戦争開戦後は[[有志連合]]の一員として、米英軍と共に[[イラク]]に[[スペイン軍]]1400人を派遣した。[[2004年]][[3月11日]]に[[スペイン列車爆破事件]]が起き、多数の死傷者を出した。選挙を3日後に控えていた右派の[[ホセ・マリア・アスナール|アスナール]]首相はこれを政治利用し、[[バスク祖国と自由]] (ETA) の犯行だと発表したが、[[3月14日]]に実施された[[2004年スペイン議会総選挙]]では左派の社会労働党が勝利し、[[ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ|サパテロ]]政権が誕生した。サパテロ首相は就任後、2004年5月にイラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。また、後に2004年の列車爆破事件は[[アルカーイダ]]の犯行<ref>{{cite web
|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/3509426.stm|publisher=BBC|title=Al-Qaeda 'claims Madrid bombings'|accessdate=2008-08-13}} See also: {{cite web
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/7070827.stm
|title = Madrid bombers get long sentences
|publisher = BBC
|accessdate = 2008-08-13
}}</ref>と [[アメリカ中央情報局|CIA]]からの発表があると、この対応を巡って政治問題となった。2005年、[[欧州憲法]]承認のため国民投票が行われ、およそ77%が賛成して批准された。翌2006年[[エンデサ]]買収が政治問題となった。サパテロ政権は[[2008年スペイン議会総選挙]]でも勝利した。
 
[[リーマン・ショック]]により、スペインの経済は壊滅的な打撃を受けた。[[2011年スペイン議会総選挙]]では国民党が勝利し、[[マリアーノ・ラホイ・ブレイ|マリアーノ・ラホイ]]が首相に就任した。2012年[[LIBOR]]などの[[国際金融市場]]で不正が次々と発覚するなかで[[スペイン経済危機 (2012年)|スペイン経済危機]]が顕在化した。2013年2月4日、首都マドリードなど各地で抗議のプラカードを掲げた市民が与党の汚職を批判するデモを行った。スペインの建設業界と与党国民党元幹部らのからむ汚職疑惑で、現金を受け取った政治家のリストに[[マリアーノ・ラホイ・ブレイ]]首相をはじめ政府・与党幹部の名前が含まれていることが暴露されていた。2014年1月7日、スペインマヨルカ島の裁判所は王族の[[クリスティナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシア]]に対し、税金詐欺と[[マネーロンダリング]]の容疑で出廷を命じた。6月12日、[[フェリペ6世 (スペイン王)|フェリペ6世]]は姉クリスティナが保有するパルマ・デ・マヨルカ公爵位を剥奪する予定であることを、事前に私的に公表した。[[2016年]]4月、[[パナマ文書]]で[[サンタンデール銀行]]がオフショアファンドに119の顧客をもっていたことが分かった。9月、去年と今年の2度の総選挙を行っても政権を樹立出来ないままだったが、ラホイ首相を首班とする政権樹立を下院で反対多数で否決し、またもや政権樹立に失敗。11月3日になってようやくラホイ再任が決定し新内閣が発足した。[[2017年]]2月17日、スペインの裁判所は「経営は夫に任せていた」などとした主張を認め、クリスティナに無罪判決を出した。夫[[イニャキ・ウルダンガリン]]は禁錮6年3カ月の有罪判決を受けた。10月27日[[カタルーニャ州]]が独立宣言を行うも([[カタルーニャ共和国]])、スペイン側はカタルーニャの自治権を剥奪し直轄統治を開始した<ref>{{citenews|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22805260X21C17A0EA1000/|title=カタルーニャ州、独立宣言  スペインは自治権停止承認|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2017-10-27|accessdate=2017-10-28}}</ref>。
 
== 政治 ==
{{main|{{仮リンク|スペインの政治|en|Politics of Spain}}}}
[[ファイル:Congreso_de_los_Diputados_(España)_14.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|[[代議院 (スペイン)|代議院]](下院)議事堂]]
<!--[[ファイル:TRIBUNAL_SUPREMO_DE_ESPAÑA.jpg|左|サムネイル|224x224ピクセル|[[スペイン最高裁判所]]]]-->
[[政体]]は[[議会君主制]]。1975年のフアン・カルロス1世の即位による[[王政復古]]により成立した現在の政体では、[[国王]]は存在するものの、象徴君主という位置づけであり、[[主権]]は国民に在する。国王は[[国家元首]]であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の[[最高指揮官]]である。国王は[[議会]]の推薦を受けて[[首相]]の指名を行うほか、首相の推薦を受けて[[閣僚]]の任命を行う。現行[[憲法]]は[[スペイン1978年憲法]]である。
{{See also|スペイン君主一覧|スペインの首相|スペインの政党}}
[[国会 (スペイン)|国会]]は[[両院制]]であり、[[代議院 (スペイン)|代議院]](下院)は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、[[元老院 (スペイン)|元老院]](上院)は定数264議席で208議席が選挙によって選出され、残り56議席が自治州の推薦で選ばれる。
 
2011年12月現在の与党は[[国民党 (スペイン)|国民党]]で、[[スペイン社会労働党]]と共に[[二大政党制]]を構成する。その他には、[[スペイン共産党]]を中心に左翼少数政党によって構成される政党連合[[統一左翼 (スペイン)|統一左翼]]や[[連合・進歩・民主主義]]などの全国政党のほかに、[[集中と統一]] (CiU)、[[カタルーニャ共和主義左翼]]、[[バスク民族主義党]]、[[ガリシア民族主義ブロック]]などカタルーニャやバスク、ガリシアの民族主義地域政党が存在する。
 
== 軍事 ==
[[ファイル:SNS_Principe_de_Asturias_(R11)_during_Dragon_Hammer_92.jpg|サムネイル|空母[[プリンシペ・デ・アストゥリアス (空母)|プリンシペ・デ・アストゥリアス]]]]
[[スペイン軍]]は[[スペイン陸軍|陸軍]]、[[スペイン海軍|海軍]]、[[スペイン空軍|空軍]]、[[グアルディア・シビル]]の4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。[[2001年]]末に[[徴兵制]]が廃止され、[[志願制]]に移行した。[[2007年]]の時点で総兵力は147,000人、予備役は319,000人である。
 
[[軍事費]](防衛費)の対GDP比は[[防衛費1%枠|日本]]と同程度の約1%内外<ref>http://www.sipri.org/research/armaments/milex</ref>にとどまり、[[北大西洋条約機構|NATO]]諸国の中で比較しても低率な方ではあるが、[[アルバロ・デ・バサン級フリゲート|イージス艦]]や[[プリンシペ・デ・アストゥリアス (空母)|軽空母]]・[[フアン・カルロス1世 (揚陸艦)|強襲揚陸艦]]、[[マルチロール機]]の[[ユーロファイター タイフーン]]、[[レオパルト2|レオパルト2EA6]]戦車など、他の主要先進国にも引けを取らない最新鋭の兵器を配備している。
 
== 国際関係 ==
{{main|{{仮リンク|スペインの国際関係|en|Foreign relations of Spain}}}}
 
南部[[アンダルシア州|アンダルシア]]地方にイスラーム文化の影響が非常に強く残っている。旧植民地であった[[ラテンアメリカ]]諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン・[[ポルトガル]]とラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催される[[イベロアメリカ首脳会議]]にも参加している。[[1986年]]の[[欧州共同体|EC]]加盟以降、そこに属してスペインへ資本を輸出する国との関係が相対的に密接となっている。スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領の[[セウタ]][[メリリャ]]の帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。モロッコは[[ダノン]]などのフランス企業がすでに60年以上かけて事業関係を築いてきた国である。また、スペインが1801年以来実効支配している[[オリベンサ]]に対してポルトガルが返還を求めている。ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとの[[イベリスモ]]思想も存在する。この点、[[英葡永久同盟]]の存在と、イギリスからスペインへ投資が行われていることに注意を要する。[[ジブラルタル海峡]]は[[チョークポイント]]であり、[[ケーブル・アンド・ワイヤレス]]の[[海底ケーブル]]が敷設されている。
 
[[日西関係史]]としては、[[岩倉使節団]]の記録である『[[米欧回覧実記]]』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のスペインの地理・歴史について記述した個所がある<ref>[[久米邦武]]編『米欧回覧実記・5』[[田中彰 (歴史学者)|田中彰]]校注、[[岩波書店]]([[岩波文庫]])1996年、126-140頁</ref>。日本の[[鉱業法]]はスペインのそれをモデルとしている。
 
== 地方行政区画 ==
{{main|スペインの地方行政区画|スペインの県}}
{{スペインの自治州地図}}
 
=== 自治州と県 ===
スペインは、17の自治州 (comunidad autónoma) から構成される。また、自治州の下に50の県 (provincia) が存在する。
*[[アンダルシア州]] (Andalucía)
*[[アラゴン州]] (Aragón)
*[[アストゥリアス州]] (Asturias)
*[[バレアレス諸島|バレアレス諸島州]] (Las Islas Baleares)
<li>[[バスク自治州|バスク州]] (El País Vasco)</li>
*[[カナリア諸島|カナリアス諸島州]] (Las Islas Canarias)
*[[カンタブリア州]] (Cantabria)
*[[カスティーリャ=ラ・マンチャ州]] (Castilla-La Mancha)
*[[カスティーリャ・イ・レオン州]] (Castilla y León)
*[[カタルーニャ州]] (Cataluña)(*)
*[[エストレマドゥーラ州]] (Extremadura)
*[[ガリシア州]] (Galicia)
*[[ラ・リオハ州 (スペイン)|ラ・リオハ州]] (La Rioja)
*[[マドリード州]] (La Comunidad de Madrid)
*[[ムルシア州]] (La Region de Murcia)
*[[ナバラ州]] (Navarra)
*[[バレンシア州]] (Valencia)
また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。[[セウタ]][[メリリャ]]の諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。[[チャファリナス諸島]]、[[ペニョン・デ・アルセマス島]]、[[ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラ]]は、スペインが直轄統治している。
 
(*)[[カタルーニャ州]]は2017年10月27日に独立宣言を行い、[[カタルーニャ共和国]]と名乗ったが、スペイン政府はこれを認めず自治権を剥奪して直轄統治を開始した。
 
=== 主要都市 ===
[[ファイル:Plaza_de_sol_madrid.jpg|サムネイル|[[首都]]マドリードはアメリカの[[シンクタンク]]が[[2017年]]に発表した総合的な[[世界都市]]ランキングにおいて、世界15位と評価された<ref>[http://www.joneslanglasalle.co.jp/japan/ja-jp/Documents/New%20Release/20171023-JLL-DecodingCityPerformance.pdf JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表] JLL 2017年10月25日閲覧。</ref>。]]
{{main|スペインの都市の一覧}}
人口の多い上位10都市は次の通り(2006年1月、[http://www.ine.es/ スペイン統計局]の2007年1月発表のデータによる)。
{| class="wikitable" href="メリリャ"
! width="30px" href="ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラ" |順位
!都市
! href="カタルーニャ州" |州
! href="カタルーニャ共和国" |人口
|-
| align="center" |'''1'''
| align="center" resource="ファイル:Plaza de sol madrid.jpg" height width |'''[[マドリード]]'''
| align="center" href="シンクタンク" |[[マドリード州]]
| align="right" href="世界都市" |3,128,600
<tr>
<td align="center">'''2'''</td>
<td align="center">'''[[バルセロナ]]'''</td>
<td align="center">[[カタルーニャ州]]
<td align="right">1,605,602</tr>
|-
|----- align="center" |'''3'''
| align="center" |'''[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]'''
| align="center" href="マドリード" |[[バレンシア州]]
| align="right" href="マドリード州" |805,304
|-
|----- align="center" |'''4'''
| align="center" |'''[[セビリア]]'''
| align="center" href="バルセロナ" |[[アンダルシア州]]
| align="right" href="カタルーニャ州" |704,414
|-
|----- align="center" |'''5'''
| align="center" |'''[[サラゴサ]]'''
| align="center" href="バレンシア (スペイン)" |[[アラゴン州]]
| align="right" href="バレンシア州" |649,181
|-
|----- align="center" |'''6'''
| align="center" |'''[[マラガ]]'''
| align="center" href="セビリア" |[[アンダルシア州]]
| align="right" href="アンダルシア州" |560,631
|-
|----- align="center" |'''7'''
| align="center" |'''[[ムルシア]]'''
| align="center" href="サラゴサ" |[[ムルシア州]]
| align="right" href="アラゴン州" |416,996
|-
|----- align="center" |'''8'''
| align="center" |'''[[ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア]]'''
| align="center" href="マラガ" |[[カナリア諸島自治州]]
| align="right" href="アンダルシア州" |377,056
|-
|----- align="center" |'''9'''
| align="center" |'''[[パルマ・デ・マヨルカ]]'''
| align="center" href="ムルシア" |[[バレアレス諸島|バレアレス諸島自治州]]
| align="right" href="ムルシア州" |375,048
|-
|----- align="center" |'''10'''
| align="center" |'''[[ビルバオ]]'''
| align="center" href="ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア" |[[バスク自治州|バスク州]]
| align="right" href="カナリア諸島自治州" |354,145
|-
|}
 
このほかに、歴史上有名な都市としては、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]、[[バリャドリード]]、[[ブルゴス]]、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]][[グラナダ]][[トレド]]などが挙げられる。
 
== 地理 ==
{{main|[[スペインの地理]]}}
 
=== 地形 ===
[[ファイル:Spain_topo.jpg|右|サムネイル|260x260ピクセル|スペインの地形]]
[[ファイル:Sp-map-ja.png|サムネイル|281x281ピクセル|スペインの地図]]
スペイン本土は高原や山地([[ピレネー山脈]]や[[シエラネバダ山脈 (スペイン)|シエラ・ネバダ山脈]])に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川([[タホ川]]、[[エブロ川]]、[[ドゥエロ川]]、[[グアディアナ川]]、[[グアダルキビール川]])が流れている。[[沖積平野]]は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川([[セグラ川]]、[[フカール川]]、[[トゥリア川]])による平野が見られる。
 
南部と東部は[[地中海]]に面し、バレアレス諸島が東部の海岸沖にある。北と西は[[大西洋]]に面し、北部で面している海域はカンタブリア海([[ビスケー湾]])と呼ばれる。カナリア諸島はアフリカ大陸の大西洋沖にある。
 
{{要出典範囲|スペインが接する国境の長さは、アンドラ63.7km、フランス623km、ジブラルタル1.2km、ポルトガル1,214km、モロッコ6.3kmである。|date=2012年12月}}
 
=== 気候 ===
全国的には[[地中海性気候]]に属する地域が多い。北部(バスク州からガリシア州にかけて)は[[西岸海洋性気候]]で、雨が多い。また、本土から南西に離れたカナリア諸島は[[亜熱帯気候]]に属する。農業は[[適地適作]]であり、北部は麦類、畜産物を産する。中央部では麦類、ぶどう、畜産物を産する。東部では柑橘類、コメ、南部ではオリーブ、ぶどう、野菜、コメ等の生産が盛んである。
 
=== 標準時 ===
スペインは[[イギリス]]同様、国土の大部分が[[本初子午線]]よりも西に位置しているが、標準時としてはイギリスよりも1時間早い[[中央ヨーロッパ時間]]を採用している(西経13度から18度にかけて存在するカナリア諸島は、イギリス本土と同じ[[西ヨーロッパ時間]])。このため、西経3度42分に位置するマドリッドにおける太陽の南中時刻は午後1時15分頃(冬時間)、午後2時15分頃([[夏時間]])となり、日の出や日の入りの時刻が大幅に遅れる(カナリア諸島についても同様)。スペインでは諸外国と比べて昼食(午後2時頃開始)や夕食(午後9時頃開始)の時刻が遅いことで有名だが、これは太陽の南中や日没に時間を合わせているためである。
 
== 経済 ==
[[ファイル:CTBA_(Madrid)_27.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|[[クアトロ・トーレス・ビジネス・エリア]]]]
{{main|{{仮リンク|スペインの経済|en|Economy of Spain}}}}
{{See also|{{仮リンク|スペインの科学と技術|en|Science and technology}}}}
[[国際通貨基金|IMF]]によると、[[2015年]]のスペインの[[GDP]]は1兆1997億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり、世界第14位である。[[韓国]]や[[オーストラリア]]などと同じかやや下回る程度の経済規模であり、[[EU]]加盟国では5位である。企業は、金融の[[サンタンデール銀行]]や[[ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行]]、通信関連企業の[[テレフォニカ]]、電力の[[イベルドローラ]]、[[ザラ (ファッションブランド)|ザラ]]で知られるアパレルの[[インディテックス]]などが大企業として挙げられる。また多額の[[国際観光収入]]を持つため観光業の比重も大きく、[[国内総生産|GDP]]に占める観光業の割合は国全体の10%を超えている<ref>{{cite web|url=http://www.projectdesign.jp/201510/rivals/002472.php|title=フランス vs. スペイン 欧州観光王国の集客術|accessdate=2016-07-24|date=2015-10|publisher=事業構想大学院大学|language=}}</ref>。
 
=== 欧州統合の効果 ===
[[1960年代]]以来、強権的な労組の解体が進み、フランスを主体とする外資が戻ってきた。[[欧州経済共同体]]加盟により投資環境が一挙に改善された。すなわち、近世から旧態以前として障壁となっていたスペインの経済法が欧州全体のルールに取って代わられ、さらに全国産業公社(Instituto([[:en:Instituto Nacional de Industria)Industria|Instituto Nacional de Industria]])というコンツェルンも意義を問われ解体されていった。こうしてスペイン経済は[[1992年バルセロナオリンピック]]頃まで高度成長をつづけ、「スペインの年」と一部では呼ばれた。しかし[[ユーロカレンシー|ユーロダラー]]の供給量が増えていたせいで、1992年9月に[[ドイツ・マルク]]が暴騰した。ここで欧州経済は混乱、スペインもその巻き添えとなった。翌1993年に[[欧州連合]]が発足、1999年[[ペソ]]が[[ユーロ]]へ切替わった。21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている<ref>{{cite news|url=http://www.iht.com/articles/2002/07/11/a10_18.php|title=Economy reaps benefits of entry to the 'club' : Spain's euro bonanza|publisher=International Herald Tribune|accessdate=2008-08-09|date=11 July 2002|author=Pfanner, Eric}} See also: {{cite web
|url=http://www.economist.com/displayStory.cfm?story_id=9118701|title=Spain's economy / Plain sailing no longer|publisher=The Economist|date=3 May 2007|accessdate=2008-08-09}}</ref>。[[アスナール]][[国民党]]政権の[[新自由主義]]的な雇用の流動化政策や土地法(Ley([[:es:Ley del Suelo de España)España|Ley del Suelo de España]])改正による土地開発制限の緩和、大規模な公共投資の実地、2003年改正EU電力自由化指令年内達成などによって、[[ドイツ]][[フランス]]・[[イタリア]]など欧州の経済大国を上回る勢いの経済成長を達成した。市場為替相場を基とした[[国内総生産]]は2008年は世界9位で[[カナダ]]を超えた([[主要国首脳会議]]には参加していない)。
 
=== 21世紀のブラセロス ===
{{See also|2010年欧州ソブリン危機}}
スペイン人の労働時間はEU内で第1位である。一方、平均給与はイギリスの4万ユーロに対して2万ユーロに留まっており、経済が労働者に還元されない状態になっている。したがって高騰する土地家屋の取得はスペイン国民にとって重荷になりつつあった。打開策として多くの国民は銀行と土地取得のローン契約を試みた。銀行側も国民の給与が下げ止まっているにも関わらず、土地価格上昇を見込んで安易なローン審査で次々と契約を結んでいった。先端技術をはじめとする国際産業と、そこへ向けられた外国資本が、実体経済に見合わない不動産バブルを生んでいた。それらが撤退すると、土地法改正から7年後となる2005年に、それまでの約2.5倍に高騰していた土地価格が暴落した。[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]の影響で経営難に陥った銀行は融資を行わなくなった。外国人投資家もスペインから資金を引き上げ、スペイン国債を購入する投資家は激減した。雇用の多くを支えていた建設企業は、不況や公共投資の中断によって倒産が相次いだ。さもなくば労働権の後退につけこみ大規模なレイオフを実行して生き残った。解雇や倒産により失業者となった国民は、債権回収として銀行から家屋を没収された。政府による有効な手立ても無く、街中に職も家も無い[[ホームレス]]が溢れ返った。
 
=== ベーシックインカムの提案 ===
2011年1月から3月までの[[失業率]]21.29%、失業者は490万人と過去13年間で最悪の数字となっている<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/30002607.html スペインの失業率がさらに上昇 (CNN.co.jp) 2011年4月30日]</ref>。2012年でも失業率は回復せず、さらに悪化した。2012年10月5日、スペインの月次の失業率はスペインの近代史上初めて25%を突破した([[スペイン経済危機 (2012年)|スペイン経済危機]])。若年失業率は現在{{いつ|date=2016年1月}}52%を超えており、先進国全体の平均の3倍以上に上っている<ref>{{Cite news
|url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36487|title=希望を失うスペイン国民の悲哀|newspaper=JBpress|publisher=[[フィナンシャル・タイムズ]]|date=2012-11-6}}{{リンク切れ|date = 2017年10月
}}</ref>。
 
欧州各国の例にもれなく、スペインでも[[反グローバリゼーション]]を主張する運動が展開された。
 
2014年、'''[[ベーシックインカム]]'''(最低限所得保障)を政治主張に掲げる政治団体[[ポデモス]]が結党され、[[国民党]]に次ぐ2番目の党員数を集めるなど急速に支持を拡大している。
 
=== 枯渇が近い鉱産資源 ===
スペインの鉱業資源は19世紀から[[リオ・ティント]]などの外国資本に思い切り採掘されてきた。21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。国際競争力が相対的に低下し、外資の投下される産業分野が多様化している。
 
有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める[[亜炭]](1228万トン)が有力。品質の高い[[石炭]](975万トン)、[[原油]](32万トン)、[[天然ガス]](22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱は[[アストゥリアス州]][[カスティーリャ・イ・レオン州]]にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。
 
金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の[[水銀]](150トン<!-- 万トンではない -->)のほか、2.1%の占有率の[[マグネシウム]]鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、[[]][[]]、[[亜鉛]]、[[銅]]、[[鉛]]、わずかながら[[スズ|錫]]も対象となっている。鉱山はプレート境界に近い南部地中海岸の[[シエラネバダ山脈 (スペイン)|シエラネバダ山脈]]と[[シエラモリナ山脈]]に集中している。水銀はシエラモリナ山脈が伸びるカスティーリャ地方の[[シウダ・レアル県]]に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に亘って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、[[ビルバオ]]が著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。
 
その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩、イオウ(同1.1%)、塩(同1.5%)を産出する。
 
=== 世界一の臓器提供者数 ===
==交通==
スペインは[[移植 (医療)|臓器移植]]大国である。スペインの臓器提供者数は長年にわたり世界一である。2006年スペイン人100万人あたりの提供者数は33.8人である。第二位のアメリカ合衆国は27人で、欧州連合加盟国平均が18人であった。スペインの提供率が高い地域は順にバスク、カンタブリア、アストゥリアス、ナバラである。40-60歳代が提供者の29%を占める。男女比は62対38である。提供者の死亡原因は脳出血が最多の60%を占める。スペインは[[脳死]]を人の死として規定している。提供臓器は国内だけでなく欧州連合各国にも「輸出」されている。2006年の移植件数は3756件であった。<ref>碇 順治 『ヨーロッパ読本 スペイン』 河出書房新社 2008年6月 239頁</ref>
 
スペインでは、本人が臓器提供拒否の意思表示をしていない以上、臓器を摘出してもよいとする「オプト・アウト方式」を採用している。この臓器移植体制はスペインで1979年に法制化された。1984年、臓器修復および臓器移植の病院が充足すべき要件が、1979年の臓器移植法に符合するよう規定された。1985年[[カタルーニャ州]]は、この分野で異なる病院の連携に責任をもつ部署を設置した。この部署は基本として国内だけでなく、スペインとEU各国との連携も担ってきた。1989年スペイン政府保健医療省が同様の機関を設けて、カタルーニャを除いた国内全域を担当させるようになった。<ref>甲斐克則 「スペインにおける臓器移植 バルセロナでの調査から」 比較法学 46(2), 2012年12月</ref>
 
== 交通 ==
{{Main|{{仮リンク|スペインの交通|en|Transport in Spain}}}}
{{See also|スペインの企業一覧#運輸・交通}}
394 ⟶ 399行目:
地上路線の他にも、[[マドリード地下鉄]]をはじめ、[[バルセロナ地下鉄]]、[[メトロバレンシア]]など、主要都市には[[地下鉄]]網が存在する。
 
== 国民 ==
{{main|{{仮リンク|スペインの人口統計|en|Demographics of Spain}}|スペイン人の一覧}}
[[ファイル:Santiago.de.Compostela.Catedral.Noche.jpg|サムネイル|390x390ピクセル|[[ガリシア州]]の[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂]]。カトリック教会の[[聖地]]の一つであり、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路|古くから多くの巡礼者が訪れている]]。]]
 
=== 民族 ===
{{main|スペイン人}}
[[ラテン系]]を中核とする[[スペイン人]]が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特に[[カタルーニャ州|カタルーニャ]][[バスク州|バスク]]などの住人はスペイン人としての[[アイデンティティ]]を否定する傾向にあり、[[ガリシア州|ガリシア]][[カナリア諸島]]の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。それ以外の地方でも地域主義、民族主義の傾向が存在し、運動としては非常に弱いものの独立を主張するものまで存在する。一般に「スペイン人」もしくはその中核とされる旧[[カスティーリャ王国]]圏内の住民の間でも、[[イスラーム]]文化の浸透程度や歴史の違いなどから、[[アラゴン州|アラゴン]][[アンダルシア州|アンダルシア]]の住人とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。
 
近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人人口は全人口の11%に当たる522万人にも上る(2000年の外国人人口は92万人であった)。
 
=== 言語 ===
{{main|スペインの言語}}
[[スペイン語]](カスティーリャ語とも呼ばれる)がスペインの[[公用語]]であり全国で話されており、[[スペイン1978年憲法|憲法]]にも規定されている。その他にも自治州憲章によって[[カタルーニャ語]]、[[バレンシア語]]、[[バスク語]][[ガリシア語]][[アラン語]]が地方公用語になっているほか、[[アストゥリアス語]]と[[アラゴン語]]もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全て[[ラテン語]][[俗ラテン語]])に由来する[[ロマンス語]]である。また、[[ラテンアメリカ]]で話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。
 
[[ローマ帝国]]の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉は廃れている。
 
北スペインのフランス寄りに、バスク語を話す[[バスク人]]が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、スペインのみならず他の[[ヨーロッパ]]とも共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。
 
==== 言語の一覧 ====
現在、[[エスノローグ]]はスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。
*[[ガリシア語]][[ガリシア州]]
*[[スペイン語]](国家公用語)
*[[カタルーニャ語]][[カタルーニャ州]]、[[バレアレス諸島州]])
<li>[[バレンシア語]][[バレンシア州]])</li>
*[[アストゥリアス語]][[アストゥリアス州]][[カスティーリャ・イ・レオン州]]
*[[アラゴン語]][[アラゴン州]]北部)
*[[エストレマドゥーラ語]]([[エストレマドゥーラ州]]の一部)
*[[バスク語]][[バスク州]][[ナバーラ州]]
 
=== 宗教 ===
{{main|スペインの宗教}}
中世末期の[[レコンキスタ]]完了以前は[[イスラム教]]が多数派を占める地域もあったが、現在では[[カトリック教会|カトリック]]が94%である。[[イベリア半島]]では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていた[[ユダヤ人|ユダヤ教徒]]が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘った[[セファルディム]]もいた。残りは、[[ムスリム]]など。
 
なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにもかかわらず、近年では[[ローマ教皇庁]]が反対している[[避妊具]]の使用や[[同性婚]]を解禁するなど社会的には[[政教分離]]の思想が進んでいる点も特徴である。
 
=== 教育 ===
{{main|スペインの教育}}
[[ファイル:Old_Library_in_University_of_Salamanca_01.jpg|サムネイル|220x220ピクセル|[[サラマンカ大学]](1218年創立)の[[図書館]]]]
スペインの[[教育]]制度は[[初等教育]]が6歳から12歳までの6年制、[[前期中等教育]]が12歳から16歳までの4年制であり、以上10年間が[[義務教育]]機関となる。[[後期中等教育]]は[[バチジェラト]]と呼ばれる16歳から18歳までの2年制であり、このバチジェラト期に進路が決定する。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は97.9%であり<ref name="2010cia">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/sp.html CIA World Factbook "Spain"] 2010年11月8日閲覧。</ref>、これは[[アルゼンチン]] (97.2%) や[[ウルグアイ]] (98%)、[[キューバ]] (99.8%) と並んでスペイン語圏最高水準である。
 
主な[[高等教育]]機関としては、[[サラマンカ大学]](1218年)、[[マドリード・コンプルテンセ大学]](1293年)、[[バリャドリード大学]](13世紀)、[[バルセロナ大学]](1450年)、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学]](1526年)、[[デウスト大学]](1886年)などが挙げられる。大学は4年制ないし6年制であり、[[学位]]取得が出来ずに中退する学生の多さが問題となっている。
 
=== 結婚 ===
結婚前の姓は、一般的には「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」であるが、1999年に「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」でもよい、と法律が改正された。婚姻によって名前を変える必要はないが、女性はその他の選択肢として「de + 相手の父方の姓」を後置する、「母方の祖父の姓」を「相手の父方の姓」に置き換える、「母方の祖父の姓」を「de + 相手の父方の姓」に置き換える、などの選択が可能である<ref>[http://www.spanish411.net/Spanish-Hispanic-Names.asp Hispanic Names]</ref>。
 
また、2005年より、[[同性婚]]が可能となった。
 
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|スペインの文化|en|Culture of Spain}}}}
[[ファイル:Sagradafamilia-overview.jpg|サムネイル|264x264ピクセル|[[バルセロナ]]の[[サグラダ・ファミリア]]]]
情熱的で明るい、気さくな[[スペイン人]]という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。数百年の歴史を持つ[[闘牛]]は世界中に知られている。[[1991年]]に創設された[[セルバンテス文化センター]]によって、世界各地にスペイン語やスペイン文化が伝達されている。
 
=== 食文化 ===
{{main|スペイン料理}}
スペインでは日本と異なる時間帯に食事を摂り、一日に5回食事をすることで有名。
455 ⟶ 460行目:
#セナ (Cena):夕食。午後9時頃、スープ、サラダなどを食べる。
 
==== アルコール類 ====
*'''[[スペインワイン|スペイン・ワイン]]'''
*'''[[カバ (ワイン)|カバ]]''' (Cava) - [[シャンパーニュ|シャンパーニュ地方]]産ではないのでシャンパンとは呼べないが、シャンパンと同じ製法で作られる[[発泡ワイン]]である。主にカタルーニャ地方で造られている。
461 ⟶ 466行目:
*'''[[サングリア]]''' - 赤ワインを基にしたカクテル。
 
==== スペイン料理 ====
*[[スペイン料理]]
<li>[[トルティージャ]](トルティージャ・エスパニョーラ、トルティージャ・デ・パタータ) - ジャガイモのオムレツ</li>
*[[パエリア]]
 
=== 文学 ===
{{main|スペイン文学}}
[[ファイル:Cervantes_Jáuregui.jpg|サムネイル|289x289ピクセル|『[[ドン・キホーテ]]』の著者[[ミゲル・デ・セルバンテス]]]]
12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『[[わがシッドの歌]]』はスペイン最古の[[叙事詩]]と呼ばれている。
 
[[スペイン文学]]においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『[[ドン・キホーテ]]』の著者[[ミゲル・デ・セルバンテス]]が挙げられる。
 
1492年から1681年までの[[スペイン黄金世紀]]の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人[[サン・フアン・デ・ラ・クルス]]の[[神秘主義]]や、[[ホルヘ・デ・モンテマヨール]]の『ラ・ディアナの七つの書』(1559) に起源を持つ[[牧歌小説]]、[[マテオ・アレマン]]の『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599, 1602) を頂点とする[[ピカレスク小説]]、『国王こそ無二の判官』(1635) の[[ロペ・デ・ベガ]]、『セビーリャの色事師と色の招客』(1625) の[[ティルソ・デ・モリーナ]]などの演劇が生まれた。
 
近代に入ると、1898年の[[米西戦争]]の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した「[[98年の世代]]」と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者の[[ミゲル・デ・ウナムーノ]]や[[ホセ・オルテガ・イ・ガセット|オルテガ・イ・ガセット]]、小説家の[[アンヘル・ガニベー]]、詩人の[[フアン・ラモン・ヒメネス]](1956年[[ノーベル文学賞]]受賞)や[[アントニオ・マチャード]]などが活躍した。
 
[[スペイン内戦]]の時代には内戦中に銃殺された詩人[[フェデリコ・ガルシア・ロルカ]]などが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期には[[ラモン・センデール]]や[[カルメン・ラフォレ]]、[[フアン・ゴイティソーロ]]、[[ミゲル・デリーベス]]らがスペイン内外で活躍した。
 
民主化以後は[[カミーロ・ホセ・セラ]]が1989年に[[ノーベル文学賞]]を受賞している。
 
セルバンテスに因み、1974年に[[スペイン語圏]]の優れた作家に対して贈られる[[セルバンテス賞]]が創設された。
 
=== 哲学 ===
{{See also|スペインの哲学}}
[[ファイル:JoseOrtegayGasset.jpg|サムネイル|235x235ピクセル|[[ホセ・オルテガ・イ・ガセット]]。20世紀の精神に多大な影響を与えた『[[大衆の反逆]]』(1929年)で知られる。]]
[[古代ローマ]]時代に活躍した[[ストア派]]哲学者の[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|小セネカ]]はコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下の[[アル=アンダルス]]では学芸が栄え、[[イブン・スィーナー]](アウィケンナ)などによる[[イスラーム哲学]]が流入し、12世紀の[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]では[[アリストテレス]]派の[[イブン・ルシュド]](アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者[[マイモニデス]]もコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン・スィーナーやイブン・ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によって[[アラビア語]]から[[ラテン語]]に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学は[[スコラ学]]に大きな影響を与えた。
 
16世紀には[[フランシスコ・デ・ビトリア]]や[[ドミンゴ・デ・ソト]]らのカトリック神学者によって[[サラマンカ学派]]が形成され、17世紀[[オランダ]]の[[フーゴー・グローティウス]]に先んじて[[国際法]]の基礎を築いた。17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、{{仮リンク|ベニート・ヘロニモ・フェイホー|es|Benito Jerónimo Feijoo|en|Benito Jerónimo Feijóo y Montenegro|label=フェイホー}}や{{仮リンク|ガスパール・メルチョール・デ・ホベジャーノス|es|Gaspar Melchor de Jovellanos|en|Gaspar Melchor de Jovellanos|label=ホベジャーノス}}などの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然とした[[スコラ哲学]]に覆われた。19世紀後半に入ると[[ドイツ観念論]]の[[カール・クリスティアン・フリードリヒ・クラウゼ|クラウゼ]] ([[:en:Karl Christian Friedrich Krause|Krause]]) 哲学が影響力を持ち、[[フリアン・サンス・デル・リオ]]と弟子の[[フランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオス]]を中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。
 
20世紀の哲学者としては、「98年の世代」の[[キルケゴール]]に影響を受けた[[実存主義]]者[[ミゲル・デ・ウナムーノ]]や、同じく「98年の世代」の『[[大衆の反逆]](1929([[1929]])で知られる[[ホセ・オルテガ・イ・ガセット]]、[[形而上学]]の再構築を目指した[[ハビエル・スビリ]]の名が挙げられる。
 
=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|スペインの音楽|en|Music of Spain}}}}
[[ファイル:Manuel_de_Falla_con_bastón.jpg|サムネイル|351x351ピクセル|[[マヌエル・デ・ファリャ]]]]
501 ⟶ 506行目:
クラシック音楽史に名を残す作曲家としては、[[バロック音楽]]ではイタリア出身でスペイン王家に仕えた[[ドメニコ・スカルラッティ]]、[[近代音楽]]ではスペインの民謡や民話をモチーフとして利用した[[マヌエル・デ・ファリャ]](特にピアノと管弦楽のための『[[スペインの庭の夜]]』、[[バレエ]]『[[三角帽子]]』、同『[[恋は魔術師]]』が有名)をはじめ、[[エンリケ・グラナドス]]、[[イサーク・アルベニス]]、[[現代音楽]]では[[ホセ・マヌエル・ロペス・ロペス]]などがいる。
 
隣国[[フランス]]の作曲家もスペインをモチーフにした音楽を作曲した例は多く、[[ジョルジュ・ビゼー]]の[[オペラ]]『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』をはじめ、[[エドゥアール・ラロ]]の『[[スペイン交響曲]]』、[[エマニュエル・シャブリエ]]の狂詩曲『[[スペイン (シャブリエ)|スペイン]]』、[[クロード・ドビュッシー]]の『[[映像 (ドビュッシー)|管弦楽のための映像]](第2曲・イベリア)』、[[モーリス・ラヴェル]]の『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』やオペラ『[[スペインの時計]]』などがある。
 
日本では[[教育楽器]]として親しまれている[[カスタネット]]は元々スペインの民族楽器であり、また[[タンブリン]]もイスラム文化とともにスペインに伝来した経緯があるため、フランスでは特に「バスクのタンブリン」と呼ばれる。上記のスペインやその他の国の作曲家がスペイン風情緒を強調する手段として、これらの打楽器が多用される。
 
南部の[[アンダルシア州|アンダルシア]]地方の[[ジプシー]]系の人々から発祥したとされる[[フラメンコ]]という踊りと歌も有名である。
 
=== 美術 ===
{{main|{{仮リンク|スペインの芸術|en|Spanish art}}}}
イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の[[壁画]]美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期には[[エル・グレコ]]が活躍している。バロック期には[[フランシスコ・リバルタ]]や[[ホセ・デ・リベラ]]、[[フランシスコ・デ・スルバラン]]、[[アロンソ・カーノ]]、[[ディエゴ・ベラスケス]]、[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]]、[[フアン・デ・バルデス・レアル]]などが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけては[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]が活躍した。[[スペイン黄金時代美術]]を参照
 
19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野で[[サンティアゴ・ルシニョール]]、[[ラモン・カザス]]、[[パブロ・ピカソ]]、[[ジョアン・ミロ]]、[[サルバドール・ダリ]]、[[ジュリオ・ゴンザレス|ジュリ・ゴンサレス]]、[[パブロ・ガルガーリョ]]などが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。
 
=== 映画 ===
{{main|スペインの映画}}
[[ファイル:Pedro_Almodovar_and_Penélope_Cruz.jpg|サムネイル|248x248ピクセル|[[ペドロ・アルモドバル]]と[[ペネロペ・クルス]]]]
520 ⟶ 525行目:
民主化以後は[[ホセ・ルイス・ボロウ]]や[[カルロス・サウラ]]、[[マリオ・カムス]]、[[ペドロ・アルモドバル]]、[[アレハンドロ・アメナバル]]などの映像作家らが活躍している。
 
=== 観光 ===
{{main|{{仮リンク|スペインの観光|en|Tourism in Spain}}}}
現在のスペインは世界有数の観光大国となっており、2015年の[[国際観光客到着数]]では世界3位、2017年の[[旅行・観光競争力レポート]]では世界1位を記録した。欧州内ではイタリアを上回り、フランスに次ぐ地位にあるが、バルセロナやグラナダ等各地の著名な文化遺産を有することに加えて、[[コスタ・デル・ソル]]や[[カナリア諸島]]を中心とした避寒目的のリゾート需要が、スペインの観光業を支えている。外国人旅行者としてはイギリス人が最も多く、国際観光客到着数全体の2割超の割合を占めている。
 
=== 世界遺産 ===
{{main|スペインの世界遺産}}
<p>スペイン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]一覧に登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が34件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。</p>
 
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable" style="" href="フランシスコ・デ・スルバラン"
|+ href="アロンソ・カーノ" |'''スペイン全国共通の祭日を以下に示す。この他に自治州の祝日や自治体単位での祝日がある。'''
 
!日付
! href="サンティアゴ・ルシニョール" |日本語表記
! href="ラモン・カザス" |スペイン語表記
! href="パブロ・ピカソ" |備考
|- href="ジョアン・ミロ"
| href="サルバドール・ダリ" |[[1月1日]]
| href="パブロ・ガルガーリョ" |[[元日]]<td>''Año Nuevo''</td>
| href="ファイル:Pedro_Almodovar_and_Penélope_Cruz.jpg" |
|- resource="ファイル:Pedro_Almodovar_and_Penélope_Cruz.jpg" height width
|[[移動祝祭日]]
| href="ペネロペ・クルス" |[[聖金曜日]]
| href="ルイス・ブニュエル" |''Viernes Santo''
| href="フアン・アントニオ・バルデム" |[[復活祭]]の2日前の金曜日
|-
| href="ホセ・ルイス・ボロウ" |[[5月1日]]
| href="マリオ・カムス" |[[メーデー]]
| href="アレハンドロ・アメナバル" |''Día del Trabajador''<td></td>
|-
| href="国際観光客到着数" |[[8月15日]]
| href="コスタ・デル・ソル" |[[聖母被昇天]]の日
|<i>Asunción</i>
|
|- href="国際連合教育科学文化機関"
| href="世界遺産" |[[10月12日]]
| href="自然遺産 (世界遺産)" |エスパーニャの祝日
| href="複合遺産 (世界遺産)" |''Día de la Hispanidad'' または ''Fiesta Nacional de España''
|
|-
|[[11月1日]]
|[[諸聖人の日]]|| ''Todos los Santos''||
|-
|[[12月6日]]||[[憲法記念日]]|| ''Día de la Constitución''||
|-
|[[12月8日]]||[[無原罪の御宿り|無原罪の聖母]]の日||''Inmaculada Concepción''||
|- href="復活祭"
|-[[12月25日]]
| href="5月1日" |[[クリスマス]]
| href="メーデー" |''Navidad del Señor''
|
|}
 
== スポーツ ==
{{Main|スペインのスポーツ}}
 
=== サッカー ===
{{Main|スペインのサッカー}}
スポーツにおいてスペインでは[[サッカー]]が最も盛んである。[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]は[[FIFAワールドカップ]]に13回の出場を果たしている。1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|フランス大会]]予選のときに「[[無敵艦隊]]」と呼ばれ、以後そのように呼ばれる事もある。最高成績は1950年の[[1950 FIFAワールドカップ|ブラジル大会]]の4位を久しく上回れず、「永遠の優勝候補」などと言われてきたが、[[2010年]]の[[2010 FIFAワールドカップ|南アフリカ大会]]で初めて決勝に進出し、[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]との延長戦の末、初めて優勝を手にした。一方[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]では2012年までに3度の優勝を経験している。[[FIFAランキング]]では[[2008年]]から[[2013年]]の6年間にかけて世界1位を記録している<ref>[http://www.fifa.com/fifa-world-ranking/associations/association=esp/men/index.html FIFA/Coca-Cola World Ranking - SPAIN Men's Ranking]</ref>。
 
また、国内のリーグ戦である[[リーガ・エスパニョーラ]]は、世界各国の有力選手が集結し[[イングランド]]([[プレミアリーグ]])や[[イタリア]]([[セリエA (サッカー)|セリエA]])のリーグと並んで注目を集めている。その人気ぶりはスペインの2016年テレビ番組視聴者数ランキングにおいて、トップ50のうち94%にあたる47番組がサッカー関連番組だったほど<ref>[https://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20170104/536707.html スペインのTV視聴者数ランク、昨年トップ50のうち94%をサッカー番組が独占] サッカーキング 2017年1月4日</ref>。特に[[FCバルセロナ]]対[[レアル・マドリード]]の対戦カードは[[エル・クラシコ]]と呼ばれ、スペイン国内では視聴率50%を記録、全世界で約三億人が生放送で視聴するとも言われる。日本人では[[SDエイバル|エイバル]]の[[乾貴士]]が在籍している(2017年現在)。
 
=== バスケットボール ===
{{Main|{{仮リンク|スペインのバスケットボール|en|Basketball in Spain}}}}
[[バスケットボール]]も[[バスケットボールスペイン代表|スペイン代表]]が2006年に[[2006年バスケットボール世界選手権|世界選手権]]を制覇し注目を集めている。[[NBA]]で活躍する選手も2001-2002ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[[パウ・ガソル]]や[[ホセ・カルデロン]]、[[セルヒオ・ロドリゲス]]らがいる。
 
=== サイクルロードレース ===
自転車[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]も伝統的に盛んで、[[ツール・ド・フランス]]史上初の総合5連覇を達成した[[ミゲル・インドゥライン|ミゲル・インデュライン]]をはじめ、[[フェデリコ・バーモンテス]]、[[ルイス・オカーニャ]]、[[ペドロ・デルガド]]、[[オスカル・ペレイロ]]、[[アルベルト・コンタドール]]、[[カルロス・サストレ]]といった歴代ツール・ド・フランス総合優勝者を筆頭に(2006年、2007年、2008年、2009年と4年連続でスペイン人による総合優勝)、著名な選手を数多く輩出している。また、例年8月末から9月中旬まで開催される[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]は[[ツール・ド・フランス]]や[[ジロ・デ・イタリア]]とともに、[[グランツール]](三大ツール)と呼ばれる自転車競技の最高峰的存在である。
 
=== モータースポーツ ===
<p>近年は[[モータースポーツ]]も人気を博しておりサッカーに次ぐ盛況ぶりである。[[ロードレース世界選手権]] (MotoGP) の視聴率は40%を超えることもしばしば。[[世界ラリー選手権]]では[[カルロス・サインツ]]がスペイン人初のワールドチャンピオンに輝いた。[[フォーミュラ1|フォーミュラ1 (F1)]] では[[フェルナンド・アロンソ]]が2005年(当時)F1 史上最年少世界王者に輝き、スペインのスポーツ選手人気ランキングでサッカー選手の[[ラウル・ゴンサレス]]([[レアル・マドリード]])を抑え1位になるなど、その人気は過熱している。</p>
 
=== テニス ===
[[テニス]]の水準も高く近年注目度の高い[[ラファエル・ナダル]]をはじめ[[フアン・カルロス・フェレーロ]]、[[カルロス・モヤ]]といった世界1位になったことのある選手等数多くの著名な選手を輩出し、男子の国別対抗戦である[[デビスカップ]]でも毎年好成績を収めている。
 
現在でも男子世界ランキングで100位以内の選手が一番多い国である。
 
=== その他 ===
その他にも[[闘牛]]を行う伝統が存在する。近年では[[シンクロナイズドスイミング]]において独特の表現力で世界的に注目を集めている。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* 関哲行 他2名編 『世界歴史大系 スペイン史 1』  山川出版社 2008年
* J・ハリソン著 弘田嘉男訳 『スペイン経済の歴史』 西田書店 1985年
<ul><li>{{Cite book|和書|ref=岩根(2002)|author=[[岩根圀和]]|title=物語スペインの歴史──海洋帝国の黄金時代|series=中公新書1635|date=2002年2月|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-101635-5|location=[[東京]]}}</li>
<li>{{Cite book|和書|ref=牛島、川成、坂東(1999)|author=[[牛島信明]]、[[川成洋]]、[[坂東省次]]編|title=スペイン学を学ぶ人のために|series=|date=1999年5月|publisher=[[世界思想社]]|isbn=4-12-101564-8|location=[[京都]]}}</li>
<li>{{Cite book|和書|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)|author=[[エドゥアルド・ガレアーノ]]/大久保光夫訳|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|date=1986年9月|publisher=[[新評論]]|isbn=|location=[[東京]]}}</li>
<li>{{Cite book|和書|ref=田沢(2000)|author=[[田澤耕]]|title=物語カタルーニャの歴史──知られざる地中海帝国の興亡|series=[[中公新書]]1564|date=2000年12月|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-101564-8|location=東京}}</li>
<li>{{Cite book|和書|ref=立石編(2000)|author=[[立石博高]]編|title=スペイン・ポルトガル史|series=新版世界各国史16|date=2000年6月|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41460-0|location=[[東京]]}}</li>
<li>{{Cite book|和書|ref=野々山(2002)|author=[[野々山真輝帆]]|title=スペインを知るための60章|series=エリア・スタディーズ23|date=2002年10月|publisher=[[明石書店]]|isbn=4-7503-1638-5|location=[[東京]]}}</li>
<li>{{Cite book|和書|ref=坂東、戸門、碇編(2007)|author=[[坂東省次]]、[[戸門一衛]]、[[碇順治]]編|title=現代スペイン情報ハンドブック[改訂版]|series=|date=2007年10月|publisher=[[三修社]]|isbn=4-7503-1638-5|location=[[東京]]}}</li>
<li href="日本経済新聞">{{Cite book|和書|ref=渡部(2004)|author=[[渡部哲郎]]|title=バスクとバスク人|series=平凡社新書|date=2004年4月|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-7503-1638-5|location=[[東京]]}}</li></ul>
 
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|スペイン}}
{{ウィキプロジェクトリンク|スペイン}}
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*[[スペイン関係記事の一覧]]
<li>[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]</li>
<li>[[セルバンテス文化センター]]</li>
 
=== スペインに関する著書が多い作家・文化人 ===
*[[堀田善衛]] - 小説家
*[[天本英世]] - 俳優
630 ⟶ 635行目:
<li>[[俵万智]] - 歌人</li>
 
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|España|Spain}}
<li>政府
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[[Category:現存する君主国]]
[[Category:欧州連合加盟国]]
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