「海城地震」の版間の差分

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まず背景として、地震活動などを根拠に遼寧省南部の地震監視体制が強化されていたことが挙げられる。1960年頃より、[[1966年]][[邢台地震]]や[[1969年]][[渤海地震]]などの被害地震を含め、[[河北省]]から遼寧省にかけての地域で地震活動が活発化していた。活動を監視していた当局は、地震活動が北東方向に移動していく傾向があったことなどから、[[1970年]]に遼寧省南部の監視体制を強化し、遼寧省政府に地震弁公室(後の遼寧省地震局)を設置した<ref name="Rikitake01-8-1">[[#Rikitake01|力武、2001年]]、§8-1(325-327頁)</ref>。
 
この体制下、数か月前という早期から複数の種類の前兆が出現し、それが予知へとつながった。[[1974年]]、地殻変動や地震活動、[[地磁気]]の異常などをもとに国家地震局は「[[渤海 (海域)|渤海]]北部地区でかなり大きな地震が1-2年以内に起こる可能性がある」として、耐震化の方法や防災の心得、前兆の解説など地震防災教育を強化している。同年11月、国家地震局は[[大連市]]の金州断層で[[測量]]や地震活動、地磁気などの前兆が活発化している事を確認する。これを受けて12月20日、遼寧省革命委員会は市民に地震の可能性が高まっている旨を初めて市民に公表する。このころから、冬眠中の[[ヘビ]]が巣穴から出てきて凍死したり、大群で現れた[[ネズミ]]が人を警戒せず手で捕まえられるほどだったりと、[[宏観異常現象]]が多数報告されるようになる。年末には、いくつかの地域で"臨震警報"(地震発生数日前の直前予報)が出された。12月28日には[[盤山県]]内で臨震警報が出され2-3万人が屋外の[[テント]]に避難し3日間過ごしたものの、地震は発生しなかった<ref name="Rikitake01-8-1"/>。
 
翌1975年1月中旬、国家地震局は、営口から金州にかけての地域を震源地域とし、1975年前半にM6クラスの地震の発生が想定されることを確認した。これを受けて、[[ダム]]・[[鉄道]]・[[電力系統|電力]]などの[[インフラストラクチャー]]の安全対策が強化され、[[鉱山]]や[[工場]]、人口密集地など一部で[[防災訓練]]も行われた。2月1日には、営口県と海城県の県境付近で微小地震が発生し始める(後に直接的な前震の開始であることが分かる)。2月2日には、[[盤綿市]]で家畜の[[ブタ]]がお互いにしっぽを噛んだり餌を食べなくなったり、垣根や塀をよじ登ったりする現象や、[[地電流|地電位]]の異常があったことが報告される。2月3日には、微小地震が1時間に20回程度に急増し、地電位がパルス状変化を起こしてしばしば観測不能になる現象や、営口県で家畜の[[ウシ]]がけんかして地面を掻くなどの現象があったことが報告される<ref name="Rikitake01-8-1"/>。