「マックス・ヴェーバー」の版間の差分

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[[画像:Max and Marianne Weber 1894.jpg|200px|thumb|妻マリアンネと(1894年)]]
一連の宗教社会学の論文と並んで、ヴェーバーが行っていたもう一つの大きな研究の流れは、「経済と社会」という論文集としてまとめられている。<ref>なお、「経済と社会」(Wirtschaft und Gesellschaft)という表題についても、ヴォルフガング・シュルフターは「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」(Die Wirtschaft und die gesellschaftliche Ordnung und Mächte)としている。マックス・ヴェーバー全集(Max-Weber-Gesamtausgabe)でも両方が併記されている。参照:http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/7kyotosympo.htm</ref>これは、ヴェーバーが編集主幹となり、後に「社会経済学綱要」と名付けられた[[社会学]]・[[経済学]]の包括的な教科書に対し、1910年から寄稿された論文集である。この論文集も、最終的にはヴェーバー自身の手によって完成することなかった。彼の没後、妻であったマリアンネ・ヴェーバーの手によって編纂・出版されたが、このマリアンネの編纂については、批判が多い。<ref>フリードリヒ・H・テンブルック、『マックス・ヴェーバーの業績』、未来社に収録の「『経済と社会』からの訣別 ――ヨハネス・ヴィンケルマン編集による、テクスト校訂上の説明付き『経済と社会』改訂第五版(テュービンゲン、一九七六年)に対する論評のために――」</ref>その後、ヨハネス・ヴィンケルマンによる再編纂版も出ているが、本来ヴェーバーが目指していたと思われる、あるべき全体構成については、今なお議論が続いている。<ref>折原浩、『日独ヴェーバー論争: 『経済と社会』(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて』;ウォルフガング・シュルフター、折原浩、『『経済と社会』再構成論の新展開―ヴェーバー研究の非神話化と『全集』版のゆくえ』</ref>この「経済と社会」は、教科書的・体系的な[[社会学]]を構築しようとしたのと同時に、[[宗教社会学]]における「合理化」のテーマを、比較文明史・経済史的なケーススタディ(Kasuistik、決疑論)の巨大な集積を通じて検証しようとしたものと位置づけられよう。<ref>カール・レーヴィット(柴田治三郎ほか訳)『ウェーバーとマルクス』(未來社、1966年)参照:http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/zuisou4.htm</ref>また、「経済と社会」の中の「支配の社会学」における、支配の三類型、すなわち「[[合法的支配]]」「[[伝統的支配]]」「[[カリスマ的支配]]」は有名である。
 
また、ヴェーバーは、社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に、人間の内面から人間の[[社会的行為]]を理解しようとする「[[理解社会学]]」の提唱が挙げられる。さらには、純理論的にある類型的なモデルを設定し、現実のものとそれとの差異を比較するという「[[理念型]](Idealtypus)」も挙げられる。<ref>マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(Die 'Objektivität' sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis)</ref>また、政治的価値判断を含む、あらゆる価値判断を学問的研究から分離しようとする「[[価値自由]](Wertfreiheit)」の提唱も、大きな論争を引き起こした。<ref>[http://www.pu-kumamoto.ac.jp/~tosho/file/pdf/kad/12-34/KJ00004442229.pdf 米沢和彦、マックス ・ ヴェーバーにおける「科学」と[政治」 -わが国における「価値自由」論の展開-]</ref>