「アルル」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→中世: 仮リンク解消 |
m編集の要約なし |
||
24行目:
|nomhab=Arlésiens
}}
'''アルル'''({{Lang-fr|'''Arles'''}}、[[オック語]]プロヴァンサル方言:
== 地理・気候 ==
33行目:
== 歴史 ==
===ローマ都市アルル===
アルルは紀元前6世紀頃ギリシア人によって"Theline"の名前で創設された。紀元前535年に[[ケルト人]]の[[:en:Salluvii|Salluvii]]によって占領された。彼は街の名前を "アレラーテ
===重要性===
アレラーテはローマ帝国の属州であった[[ガリア・ナルボネンシス]]の非常に重要な都市であった。99エーカー
4-5世紀の間、軍事遠征の際の、ローマ皇帝のための本部として頻繁に使用され、街の影響力はピークをむかえた。395年、[[西ローマ帝国]]の西部(ガリアに[[ヒスパニア]]と[[アルモリカ]]を加えた場所)を統治する、ガリアの[[プラエトリアニ]]の本拠地となった。
42行目:
街は、皇帝[[コンスタンティヌス1世]]のお気に入りとなり、彼はここにローマ浴場を建設した。現在もその大部分は残っている。彼の息子の[[コンスタンティヌス2世]]は、この街で生まれた。[[コンスタンティヌス3世]]は、ここで[[西ローマ帝国]]の西部の皇帝になることを宣言し、408年にここを都とした。
帝国末期には、街は文化的と宗教的な中心地となった。懐疑論の哲学者である{{仮リンク|ファウォリヌス|en|Favorinus}}はここで生まれた。街はローマカトリック教会にとっても鍵となる位置にあり、ガリアのキリスト教化の重要な基地となった。街の主教職は一連のすぐれた聖職者たちによって支えられた。225年頃の{{仮リンク|トロフィムス|en|Trophimus of Arles}}に始まり、聖オノリウス(Saint
===中世===
53行目:
アルルはローヌ地方の主要な港として、経済的に長い間影響力を残した。19世紀の鉄道の開通が、最終的に水運による貿易を壊滅させてしまい、街をある種の僻地にしてしまった。
しかしこのことで、画家[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]にとってこの街が魅力的な目的地となった。彼は1888年2月21日に街に到着した。彼はその景観に魅了され、アルル時代に300以上の絵画や描画を制作した。『[[夜のカフェ]]』、『[[ファンゴッホの寝室]]』、
{{仮リンク|ローヌ川の星月夜|en|Starry Night Over the Rhone}}』、『[[アルルの女 (ジヌー夫人)|アルルの女]]』を含む彼の有名な絵画の多くはこの地で完成した。[[ポール・ゴーギャン]]は、アルルにいたゴッホを訪ねたが、ゴッホの精神状態が悪化しており、憂慮すべきほどに異様であり、1888年12月には悪名の高い耳の切り落とし事件を起こすに至った。ゴッホと関係のあったアルルの人たちは、翌年2月にゴッホを幽閉することを要求した陳情を人々に広めた。1889年5月、彼は気を利かせ、アルルを離れて[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]近郊の精神病院に入院した。
また、ゴッホの絵画作品と同名で、[[ジョルジュ・ビゼー]]が作曲した劇付随音楽(または「組曲」)「[[アルルの女]]」も有名である。▼
==人口統計==
99 ⟶ 101行目:
=== ゴッホの絵画のモデルとなった場所 ===
*
*
<gallery>
ファイル:Gogh4.jpg|ゴッホ『[[夜のカフェテラス]]』
ファイル:
ファイル:
ファイル:Van gogh bruecke 1902.jpg|1902年当時のラングロワ橋。現存しない。
</gallery>
=== その他の観光名所 ===
*アルル・古代プロヴァンス博物館
*ポルタイユ
*市役所
|