「アルル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎中世: 仮リンク解消
m編集の要約なし
24行目:
|nomhab=Arlésiens
}}
'''アルル'''({{Lang-fr|'''Arles'''}}、[[オック語]]プロヴァンサル方言: ''Arle'')Arle)は[[フランス]]南部にある[[コミューン]]。同国内最大面積を持つ。住民の呼称はアルレジャン (Arlésiens) (Arlésiens)と呼ばれ、[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]の絵画などの題名に用いられている『[[アルルの女]] ((''l'Arlésienne)'')』はこの女性単数形である。
 
== 地理・気候 ==
33行目:
== 歴史 ==
===ローマ都市アルル===
アルルは紀元前6世紀頃ギリシア人によって"Theline"の名前で創設された。紀元前535年に[[ケルト人]]の[[:en:Salluvii|Salluvii]]によって占領された。彼は街の名前を "アレラーテ (Arelate)(Arelate)"(「湖(池、潟)の近く」の意味)に変更した。ローマ人は紀元前123年に街を占領した。地中海に繋がる運河を紀元前104年に建設し、街を拡張して重要な都市とした。しかし同じく海岸沿いのマッサリア(現在の[[マルセイユ]])の影に隠れて、もがくことになった。チャンスはやってきた。カエサルが[[ポンペイウス]]と対峙した時、アルルはカエサルの側に付き、軍隊を派遣した。一方、マッサリアはポンペイウスを支援していた。カエサルの勝利が決定的になると、マッサリアはその所有物を取り上げられ、報償としてアルルに引き継がれた。街はアルルに拠点のあったローマ軍の[[第6軍団フェッラタ]]の退役軍人のための[[コロニア (古代ローマ)|植民市]]として正式に設立した。植民市としての正式な肩書きは"コロニア・ユリア・パーテルナ・アレラテンシス・セクタンノールム(Colonia Iulia Paterna Arelatensium Sextanorum)"で、英語にすると"the ancestral Julian colony of Arles of the soldiers of the Sixth"「第6軍団の先祖伝来のアルルのユリウス植民地」であった。
 
===重要性===
アレラーテはローマ帝国の属州であった[[ガリア・ナルボネンシス]]の非常に重要な都市であった。99エーカー (400(400,000 m{{sup|2}}) 程の土地を有し、[[円形闘技場]]、[[凱旋門]]、[[キルクス]]、劇場、円環状の市壁など、豊富で幅広い記念物を所有していた。現在のアルルの街よりも海に近く、主要港としても機能した。[[ローヌ川]]の最も南側にかかる橋もあった。このローマ橋は固定されているわけではなく、平底[[:en:Pontoon bridge|船型の橋]]として使用されていた。両端には塔と跳ね橋が付いていた。ボートは錨がおろされ、ちょうど少し上流に建てられた2つの塔に繋がれる形で、安全が保たれていた。この一般的でない設計は、頻繁に起こる激しい川の洪水に対処するためであった。現在は同じ場所により近代的な橋がかけられ、ローマ橋は全く残っていない。
 
4-5世紀の間、軍事遠征の際の、ローマ皇帝のための本部として頻繁に使用され、街の影響力はピークをむかえた。395年、[[西ローマ帝国]]の西部(ガリアに[[ヒスパニア]]と[[アルモリカ]]を加えた場所)を統治する、ガリアの[[プラエトリアニ]]の本拠地となった。
42行目:
街は、皇帝[[コンスタンティヌス1世]]のお気に入りとなり、彼はここにローマ浴場を建設した。現在もその大部分は残っている。彼の息子の[[コンスタンティヌス2世]]は、この街で生まれた。[[コンスタンティヌス3世]]は、ここで[[西ローマ帝国]]の西部の皇帝になることを宣言し、408年にここを都とした。
 
帝国末期には、街は文化的と宗教的な中心地となった。懐疑論の哲学者である{{仮リンク|ファウォリヌス|en|Favorinus}}はここで生まれた。街はローマカトリック教会にとっても鍵となる位置にあり、ガリアのキリスト教化の重要な基地となった。街の主教職は一連のすぐれた聖職者たちによって支えられた。225年頃の{{仮リンク|トロフィムス|en|Trophimus of Arles}}に始まり、聖オノリウス(Saint (Saint Honoré)Honoré)、5世紀前半の聖イラリー(Saint (Saint Hilary) Hilary)と引き継がれた。
 
===中世===
53行目:
アルルはローヌ地方の主要な港として、経済的に長い間影響力を残した。19世紀の鉄道の開通が、最終的に水運による貿易を壊滅させてしまい、街をある種の僻地にしてしまった。
 
しかしこのことで、画家[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]にとってこの街が魅力的な目的地となった。彼は1888年2月21日に街に到着した。彼はその景観に魅了され、アルル時代に300以上の絵画や描画を制作した。[[夜のカフェ]][[ファンゴッホの寝室]]{{仮リンク|ローヌ川の星月夜|en|Starry Night Over the Rhone}}、[[アルルの女 (ジヌー夫人)|アルルの女]]を含む彼の有名な絵画の多くはこの地で完成した。[[ポール・ゴーギャン]]は、アルルにいたゴッホを訪ねたが、ゴッホの精神状態が悪化しており、憂慮すべきほどに異様であり、1888年12月には悪名の高い耳の切り落とし事件を起こすに至った。ゴッホと関係のあったアルルの人たちは、翌年2月にゴッホを幽閉することを要求した陳情を人々に広めた。1889年5月、彼は気を利かせ、アルルを離れて[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]近郊の精神病院に入院した。
 
{{仮リンク|ローヌ川の星月夜|en|Starry Night Over the Rhone}}』、『[[アルルの女 (ジヌー夫人)|アルルの女]]』を含む彼の有名な絵画の多くはこの地で完成した。[[ポール・ゴーギャン]]は、アルルにいたゴッホを訪ねたが、ゴッホの精神状態が悪化しており、憂慮すべきほどに異様であり、1888年12月には悪名の高い耳の切り落とし事件を起こすに至った。ゴッホと関係のあったアルルの人たちは、翌年2月にゴッホを幽閉することを要求した陳情を人々に広めた。1889年5月、彼は気を利かせ、アルルを離れて[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]近郊の精神病院に入院した。
また、ゴッホの絵画作品と同名で、[[ジョルジュ・ビゼー]]が作曲した劇付随音楽(または「組曲」)「[[アルルの女]]」も有名である。
 
また、ゴッホの絵画作品と同名で、[[ジョルジュ・ビゼー]]が作曲した劇付随音楽(または「組曲」)[[アルルの女]]も有名である。
 
==人口統計==
99 ⟶ 101行目:
 
=== ゴッホの絵画のモデルとなった場所 ===
*[[夜のカフェテラス]]のモデルとなったカフェ
*[[アルルの跳ね橋]](ラングロワ橋)を再現した跳ね橋
 
<gallery>
ファイル:Gogh4.jpg|ゴッホ『[[夜のカフェテラス]]』(1888)(1888年)
ファイル:Cafe_Terrace_ArlesCafe Terrace Arles.jpg|モデルとなったカフェテラス。
ファイル:Vincent_Willem_van_Gogh_070Vincent Willem van Gogh 070.jpg|ゴッホ『[[アルルの跳ね橋]]』(1888)(1888年)
ファイル:Van gogh bruecke 1902.jpg|1902年当時のラングロワ橋。現存しない。
<!--ファイル:Pont de l'Anglois.jpg|ラングロワ橋を再現した複製-->
</gallery>
 
=== その他の観光名所 ===
*アルル・古代プロヴァンス博物館 (Musée(Musée de l'Arles et de la Provence antiques)antiques)、[[アンリ・シリアニ]]設計
*ポルタイユ
*市役所