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江戸時代中期以降には、支配層のなかにも、[[熊本藩]]主[[細川重賢]]、[[薩摩藩]]主[[島津重豪]]のような[[蘭癖]]大名があらわれ、[[久保田藩]]主[[佐竹義敦]]のように自ら絵筆をとり[[秋田蘭画|蘭画]]を描く藩主もあらわれた。博物趣味の流行や殖産興業の必要性から蘭学に傾倒した君主も多く、その支援によって蘭学はいっそう隆盛した。
 
[[田沼時代]]の[[1774年]]([[安永]]3年)には、[[杉田玄白]]・[[前野良沢]]らがオランダの医学書の『[[ターヘル・アナトミア]]』を訳して『[[解体新書]]』として刊行、[[1788年]]([[天明]]8年)には[[大槻玄沢]]が蘭学の入門書『[[蘭学階梯]]』を記して、蘭学の発展の基礎をつくった。また[[志筑忠雄]]は[[1802年]]([[享和]]2年)、[[ニュートン力学]]を研究し、[[ジョーン・ケイル]](ジョン・カイル、[[w:en:John Keill|John Keill]])の著作を『暦象新書』として翻訳刊行している。[[平賀源内]]は蘭学全般を学び、[[エレキテル]]の復元や[[寒暖計]]の発明などをおこなっている。幕府[[天文方]]では[[世界地図]]の翻訳事業がなされ、[[1810年]]([[文化 (元号)|文化]]7年)、『新訂万国全図』を刊行した。
 
『[[蘭学事始]]』は、[[1815年]](文化12年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創からを回顧して大槻玄沢に送った手記であり、戦国末期の西洋との接触から話を始め、蘭方医学の起こりや青木昆陽と野呂元丈による蘭語研究、『解体新書』翻訳時の苦労が臨場感豊かに記されている。その他、平賀源内、前野良沢、[[桂川甫周]]、[[建部清庵]]、大槻玄沢、[[宇田川玄真]]、[[稲村三伯]]など同時代の蘭学者の逸話が満載されている。
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[[ファイル:Yukichi Fukuzawa.jpg|thumb|left|200px|[[咸臨丸]]で渡米。明治2年(1869年)『[[蘭学事始]]』再版を刊行。[[旗本]]・[[福澤諭吉]]]]
 
上述のとおり、ヨーロッパ諸国のなかではオランダのみが日本との通商を許されており、長崎の出島に[[オランダ東インド会社]]の[[オランダ商館|商館]]を設置していたが、[[1808年]]([[文化 (元号)|文化]]5年)、イギリス軍艦フェートン号がオランダ船を捕獲するために長崎に侵入、薪水などを得て退去した。これが[[フェートン号事件]]である。当時のオランダは、[[ナポレオン・ボナパルト]]の弟[[ルイ・ボナパルト]]を王とする[[ホラント王国]]であり、イギリスとは戦争状態にあって、その東南アジアの植民地はイギリスによって占領されていた。この事件は、ヨーロッパにおける[[ナポレオン戦争]]の余波が東アジアの日本にまで及んだものであるが、責任をとって[[長崎奉行]][[松平康英_ (長崎奉行)|松平康英]]は自刃した。
 
:その後、1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していた[[オランダ総督]](実質的なオランダ君主)を世襲する[[オラニエ=ナッサウ家]]の一族がオランダ本国に帰国した。1815年には[[ウィーン会議]]での取り決めにより[[南ネーデルラント]](ベルギーなど)を含む[[ネーデルラント連合王国]]が成立、最後のオランダ総督[[ウィレム5世 (オラニエ公)|ウィレム5世]]の子である[[ウィレム1世 (オランダ王)|ウィレム1世]]が初代国王に即位した。これが現在まで続く[[オランダ|ネーデルラント王国]](オランダ王国)の始まりである。
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| publisher=日本国外務省
| accessdate=2013-08-19
}}</ref><ref>通商航海条約については、1953年(昭和28年)5月29日に復活の通告、同年8月4日告示(外務省告示第77号)、同年8月29日復活。</ref>。当時、食糧難の記憶のまだ新しい日本はオランダの[[干拓]]技術の習得のため、1952年より、多くの技術者を留学させている。[[1954年]](昭和29)29年)には「[[八郎潟]]干拓の父」とよばれたヤンセン博士(Peter Philips Janssen)が来日している。
 
また、二国間条約・取極は、[[1953年]](昭和28年)に[[航空協定]]<ref>{{Cite report
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オランダと日本は、[[1951年]](昭和26年)に[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)を締結した。同条約第14条により、日本はオランダに対して賠償を支払うべきではあるが、オランダは日本の存立可能な経済を維持するとの観点からすべての賠償請求権及び財産、並びに、戦争によって生じた国及び国民の請求権を放棄した<ref>この節については、[http://www.awf.or.jp/3/netherlands-00.html 各国・地域における事業内容-オランダ]、デジタル記念館・慰安婦問題とアジア女性基金(アジア女性基金)を参照。</ref>。
 
日本の[[捕虜]]であったオランダの人々に対する償いとしては、平和条約第16条に基づき、日本が[[国際赤十字委員会]]に支払った資金で一定の支払いがなされた。また、民間被抑留者については同条による支払の対象ではなかったため、平和条約の調印に先立って、1951年(昭和26年)9月7日と8日に、オランダのスティッカー([[w:en:Dirk Stikker|Dirk Stikker]])外務大臣と日本の[[吉田茂]]内閣総理大臣との往復書簡(吉田・スティッカー書簡)により、以下の見解を明らかにした。すなわち、オランダ政府は平和条約第14条(b)による請求権の放棄によってオランダ国民の私的請求権が消滅することにはならない旨表明し、これに対し、日本政府は、オランダ国民の私的請求権は最早存在しなくなるものとは考えないが、平和条約の下において連合国国民は、かかる請求権につき満足を得ることはできないであろうということ、しかし日本国政府が自発的に処置することを希望するであろう連合国国民のあるタイプの私的請求権が存在することを表明した。この吉田・スティッカー書簡に基づいて、1956年(昭和31年)3月13日、「オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する」日蘭議定書<ref name="giteisho"/>が結ばれ、日本側は「オランダ国民に与えた苦痛に対する同情と遺憾の意を表明するため」、1000万ドルを「見舞金」として「自発的に提供する」こととした。
 
こうして、日蘭間の戦後処理は、平和条約によって法的に解決済みであり、さらに日蘭議定書において、オランダ政府はいかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことが確認された。
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*'''2011年''' - [[伴野豊]]外務副大臣(1月)
*'''2012年''' - [[森本哲生]]農林水産大臣政務官(8月)
*'''2013年''' - [[岸田文雄]]外務大臣(4月、「軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI)第6回外相会合」)、皇太子・同妃雅子(4~5(4〜5月、ウィレム=アレクサンダー国王即位式)、[[林芳正]]農林水産大臣(5月)、[[西村康稔]]内閣府副大臣(5月)、[[松山政司]]外務副大臣(8月、平和宮100周年記念行事)、[[甘利明]]経済再生担当大臣(9月)、[[根本匠]]震災復興大臣(9月)
*'''2014年''' - [[安倍晋三]]首相(3月)、[[赤羽一嘉]]経済産業副大臣(4月)、[[新藤義孝]]総務大臣(7月)
*'''2015年''' - [[山際大志郎]]経済産業副大臣(1月)、[[下村博文]]文部科学大臣(1月)、[[中山泰秀]]外務副大臣(4月)、[[木内道祥]]最高裁判事(10月)
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*'''2011年''' - ローゼンタール外務大臣(10月)
*'''2012年''' - フェルハーヘン副首相兼経済・農業・イノベーション相(2月)、デ・ヤーヘル財務相(10月)、クナーペン開発協力・欧州担当相(10月)
*'''2013年''' - コルステンス最高裁判所長官(3~4(3〜4月)
*'''2014年''' - ティマーマンス外相(4月)、ウィレム=アレクサンダー国王及び[[マクシマ・ソレギエタ]]王妃(10月、国賓)、クーンデルス外相(10月)、カンプ経済相(10月)
*'''2015年''' - ダイセルブルム財務相(1月)、マルグリート王女殿下(3月)、プルメン外国貿易・開発協力相(3月)、ルッテ首相、カンプ経済相(11月)
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==脚注==
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==参考文献==