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現在の日本の学界では、2.もしくは3.が通説であるが<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=164}}</ref>、高句麗王が征東大将軍、百済王が鎮東大将軍を得たのに対し、倭王は安東将軍止まりであったなら、国際的地位に見解の差が生じるため、韓国には、1.を主張する研究者が少なからず存在する<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=165}}</ref>。
 
[[石井正敏]]は、倭国伝元嘉28年条の済の任官記事「安東将軍故ノ如シ」を注意しており、元嘉20年に安東将軍・倭国王に[[冊封]]された済は、元嘉28年に「使持節・都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事」を加号されたが、安東将軍のまま変更なく、しかし済が元嘉20年に得たもう一つの称号「倭国王」は記述されず、「倭国王」の地位がどうなったのかという問題である<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=165}}</ref>。
 
「(官爵号)如故(もとノごとシ)」表現は、倭国伝と同じ夷蛮伝の高句麗・百済条では、高句麗王・百済王は、進号・加号された場合、以前得た官爵を継承する場合は「王」号も必ず「如故」と記述されるが、済は、安東将軍のみ「如故」され、倭国王はまったく触れずに、本来は「如故」称号には「(倭国)王」が含まれなければならないが、表現方法に不可解な相違がある<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=166}}</ref>。
 
* 高句麗[[長寿王]](宋永初元年)
(前官)使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句驪王・楽浪公
 
(新除)征東大将軍。持節・都督・王・公如故。
 
* 高句麗長寿王(大明七年)
(前官)使持節・散騎常侍・督平営二州諸軍事・征東大将軍・高句驪王・楽浪公
 
(新除)大将軍・開府儀同三司。持節・常侍・都督・王・公如故。
 
* 百済[[腆支王]](永初元年、※「公」は高句麗王高璉と合叙されているため、「公」は高句麗王の楽浪公にかかる表記)
(前官)使持節・督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王
 
(新除)鎮東大将軍。持節・都督・王・公(※)如故。
 
* 倭王済(元嘉28年)
(前官)安東将軍・倭国王
 
(新除)使持節・都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。
 
さらに石井正敏は、『宋書』夷蛮伝や氐胡伝では、「如故」の場合は、高句麗長寿王では、使持節→持節、散騎常侍→常侍、都督営州諸軍事→都督、高句麗王→王、楽浪公→公など官爵号は略称が一般的であり<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=166}}</ref>、「○○将軍」号が「如故」とされる場合は「○○将軍如故」ではなく、「将軍如故」或いは「軍如故」と省略するが、済の場合、倭国伝元嘉28年条「安東将軍如故」とあり、省略すべき「安東将軍如故」とフルネームが使用されていることに注意している<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=167}}</ref>。済の軍号は高句麗・百済伝にはないが、例えば氐胡伝には事例があり、「将軍如故」の将軍は「寧朔将軍」を指している<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=166}}</ref>。
 
* [[楊文度]](元徽4年)
(前官)寧朔将軍・略陽太守・武都王
 
(新除)加督北秦州諸軍事・平羌校尉・北秦州刺史、将軍如故。
 
済が元嘉28年に除正を求めた記述には、「除…軍・郡」とあるが、将軍号・郡太守号の略称である<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=166}}</ref>。
{{quotation|{{lang|zh-Hant|二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。}}|『宋書』巻九十七}}
{{Wikisourcelang|zh|宋書/卷97}}
 
== 脚注 ==