「小早川秀秋」の版間の差分

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この秀秋の離反については、当初から[[家老]]の[[稲葉正成]]・[[平岡頼勝]]とその頼勝の親戚である東軍の[[黒田長政]]が中心となって調略が行われており、長政と[[浅野幸長]]の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれた連書状が現存している。[[白川亨]]、[[三池純正]]らの、「高台院は西軍を支持していた」という異なる説やその他傍証もあり、この書状の内容について研究が待たれている(内容では北政所のために東軍につけとは直接言ってはいない)。また、本戦の開始前より離反することを長政を通じて家康に伝えており、長政は[[大久保猪之助]]、家康は[[奥平貞治]]を目付として派遣している。
 
一方で三成、吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、[[豊臣秀頼]]が成人するまでの間の[[関白]]職と、上方2ヶ国の加増を約束して秀秋を慰留したとする史料もある。ただしその史料は正徳3年([[1713年]])成立の「関原軍記大成」に収録されている書状で原本は確認されておらず、また文体に不審な点があることから偽文書の可能性がある<ref>[[渡邊大門]]「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向」(『政治経済史学』599.600、2016年)</ref>。また、松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との[[増田長盛]]宛石田三成書状が確認されており、それまで陣取りしていた[[大垣城]]主・伊藤盛正を追い出して着陣している。関ヶ原決戦が計画的なものでなく、突発的なものであったとする説では、三成は秀秋が松尾山に陣取ったことで腹背に脅威を得、大垣城を出ざるを得なかったとする。
 
理由はともあれ、合戦中に裏切りを行った秀秋に対する当時の世評は芳しいものではなく、豊臣家の養子として出世したにも関わらず裏切りに及んだことが卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた<ref>「中臣祐範記」9月15日条</ref>。