「旭富士正也」の版間の差分

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=== 横綱時代〜引退 ===
旭富士の横綱昇進により、[[元号]]が平成時代にってからは初めての横綱誕生・1987年11月(番付上は1988年1月)場所以来約3年振りの[[4横綱]](千代の富士・北勝海・大乃国・旭富士)る。[[昇進伝達式]]では、これまで膵炎で何度も入院した経験もあって「健康に留意して相撲を取ります」との文言を口上に採用した<ref name="ref156" />。[[横綱土俵入り]]は、人数が少なく「短命」の[[ジンクス]]が有る不知火型を敢えて選んだが、これは所属する[[一門 (相撲)#立浪一門|立浪一門]]が代々不知火型を採用していた([[羽黒山政司|羽黒山]]・[[吉葉山潤之輔|吉葉山]]・双羽黒)という事情もあった。土俵入りの指導は一門外の[[佐渡ヶ嶽]]親方(元横綱・[[琴櫻傑將|琴櫻]])が行った。また[[昇進伝達式]]後によく行われる[[騎馬戦|騎馬]]に乗っての記念撮影では、珍しく部屋の関取衆([[旭道山和泰|旭道山]]・[[旭豪山和泰|旭豪山]]・[[旭里憲治|旭里]])が組んだ騎馬に乗った<ref>最近の同例は大関昇進時の[[把瑠都凱斗|把瑠都]]。通常は若い衆が騎馬を組むことが慣例。</ref>。
 
新横綱の1990年9月場所は初日から12日目まで12連勝を達成。先場所から24連勝を記録したが、13日目で大関[[霧島一博|霧島]]に初黒星を喫した。そして千秋楽結びの一番は[[北勝海信芳|北勝海]]と横綱同士13勝1敗での[[相星]]決戦となったが、北勝海に敗れて13勝2敗の優勝次点に留まり、惜しくも旭富士の3連覇はならなかった。翌11月場所では優勝争いに名を連ねる12勝3敗を挙げるも序盤で2敗しており、14日目には千代の富士に敗れた直後31回目の優勝を許す形となった。それでもこの年は2年ぶり2回目の年間最多勝(70勝)を受賞。翌年[[1991年]](平成3年)1月場所と、続いて3月場所も序盤での取りこぼしが見られ11勝4敗に終わるなど、横綱昇進以降はやや成績下降の状態が続いていた。