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復帰した1999年9月場所は、序盤2連敗したがその後白星を重ね、10日目の[[闘牙進|闘牙]]戦では左足の[[肉離れ]]を起こしながらも[[取り直し]]の相撲で勝利する。だが翌11日目からはケガの影響により黒星が続き、当時の時津風理事長(元大関・[[豊山勝男|豊山]])らを初め周囲からの「休場勧告」を一切無視して強行出場したものの、千秋楽の武蔵丸戦でも熱戦の末敗北。結局7勝3敗から終盤戦では5連敗を喫して、ついに[[負け越し]]てしまった。横綱の皆勤負け越しは、15日制が定着してからは史上2人目([[大乃国康|大乃国]]以来10年ぶり)の不名誉な記録となった。
 
この9月場所限りでの引退を勧告する声もあったが、千秋楽後に時津風理事長との話し合いの末若乃花本人は現役続行を志願し、翌場所から2場所連続全休して再起を図った。そして翌[[2000年]]、まだケガが完治せず稽古不十分なまま「ゲンの良い」同年3月場所への出場を志願、「もう一場所待て」という二子山親方の説得を振り切り自ら進退を掛けて土俵に臨んだ。しかしやはり満足な相撲が取れず、5日目に[[栃東大裕|栃東]]戦で敗れて2勝3敗。この栃東との相撲を最後に、現役引退を発表した。「強くなったか? うん、うれしかった」と、後輩の成長を肌に染み込ませ、心の区切りをつけた<ref name="intainisaisite">2000年3月17日付日刊スポーツ紙面</ref>。取組後の支度部屋では「ここまできたら怖いものはない。やれるところまでやります」と話していたが、宿舎に向かう車中で冷静に限界を悟ったという。記者会見では引退の理由を「体力を補う気力が限界になりました」とコメント<ref name="intainisaisite"/>。現役時代一番の思い出として兄弟で横綱になったことを挙げ、1993年3月場所で曙関を破った一番を思い出の取り組みに挙げている<ref name="intainisaisite"/>。記者からは「夏場所復帰でも良かったのでは」と質問されたが、引退会見では「心の問題です。今場所前に、やるぞっという気持ちになったので」と話した<ref name="intainisaisite"/>。当時の若乃花はまだ29歳2か月の若さで、横綱在位は11場所だがその内皆勤したのはわずか5場所であった。更に横綱・若乃花の引退により、4横綱時代も5場所のみに終わった。
 
横綱時代は休場の方が多くかつ横綱の地位で一度も幕内優勝出来ず、十分にその役目を果たせなかった<ref name="100retsu"/>。それでも大関時代は大型力士が台頭する中で、小兵の若乃花は下手をすると大負けしかねない状況だったが、休場明け等の場所を除いた場所では概ね二桁以上の成績を上げている。その為引退時には「横綱昇進しなければ『名大関』として名を残せた」「大関の地位に留まれば、こんなに早く引退する事は無かった」との惜しむ声もあった<ref>『嫌いなことでも好きになれる。』魁皇博之・著作より。尚魁皇も若乃花と同じく1988年3月場所初土俵「花の六三組」の[[ライバル]]だった。</ref>。しかし後年本人は2014年6月2日放送分のフジテレビ『[[ジャネーノ!?]] 』で概して「相撲という競技は好きだが小さな体で大きな相手と戦わなければならないので大相撲力士にはなりたくなかった」と明かしており「横綱になったらやめるという条件を付けてもらった」とも話していた<ref>{{Cite web|url=http://datazoo.jp/tv/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%8E%EF%BC%81%EF%BC%9F/757026|title=2014年6月2日放送『ジャネーノ!?』|publisher=TVでた蔵|date=2014-06-02|accessdate=2015-01-09}}</ref>。また、力士生命にとって致命的になった足の怪我の容態は引退後も回復しておらず、後に「将来、車椅子の生活になる事は避けられない」と医師から告げられた事を告白している<ref>潮([[潮出版社]])2004年12月号 222~229ページ『連載対談 内館牧子の「今日もがぶり寄り!」(36) 報道されていることの八割は「ウソ」でした。』</ref>。2016年夏頃に武蔵丸(現15代[[武蔵川]]親方)は若乃花に会った時、怪我の後遺症で毎日痛み止めを飲んでいることを知り、驚いたという<ref>『大相撲ジャーナル』2016年9月号12ページ</ref>。