「サツマイモ」の版間の差分

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* [[1604年]]、当時の[[琉球王国]](現在の[[沖縄県]])[[沖縄本島]]に伝わる。[[明]]への進貢船の事務職長(総管)であった[[野國総管]](与那覇 松)という人物が明(今日の[[中国]][[福建省]]付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして[[北谷町|北谷]][[間切]]野国村(現在の[[沖縄県]][[中頭郡]][[嘉手納町]])に持ち帰り、儀間村の地頭・[[儀間真常]]が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった。種子島や本土に伝来したのはこちらの系統である。
* [[1698年]]([[元禄]]11年)3月、[[種子島]]に伝わる。領主[[種子島久基]]([[種子島氏]]第19代当主、栖林公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、[[琉球]]の[[尚貞王]]より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。[[西之表市]]下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建つ<ref name="徳永 p.27">徳永 p.27</ref>。
* [[1705年]]([[1709年]]とするものもあり)、薩摩[[山川町 (鹿児島県)|山川]][[外城制|郷]][[山川岡児ケ水|岡児ケ水村]]の[[前田利右衛門]]は、船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになった。前田利右衛門を祀る[[徳光神社]]には「さつまいも発祥の地」とする碑が建てられている。
* [[1711年]]、薩摩を訪れた[[下見吉十郎]]が薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていたサツマイモを持ち出し、故郷の[[伊予国]][[瀬戸内海]]の[[大三島]]での栽培を開始した。
* [[1715年]]([[正徳]]5年)、[[対馬]]の[[郷士]]の原田三郎右衛門が、薩摩国からサツマイモの種イモを持ち帰った。対馬国の地は全島の9割近くが山地であり、耕作面積が非常に狭いため、武士階級でも山野の食物を採集して食べていたほど食糧生産事情が悪かったが、サツマイモの普及によりこれが解消した。現地では「孝行イモ」とも呼ばれる。また、サツマイモを非常に手間をかけて加工し、「[[せん (食品)|せん]]」と呼ばれる保存食を製造していた。この「せん」から対馬独特の団子や[[ちまき]]、さらに「[[六兵衛|ろくべえ]]」と呼ばれる麺を作る。