「観応の擾乱」の版間の差分

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=== 直義の排除 ===
そうした中、[[貞和]]5年(南朝正平4年、1349年)閏6月、直義は側近の[[上杉重能]]や[[畠山直宗]]、禅僧[[妙吉]]らの進言を容れて、師直の悪行の数々を挙げてこれを糾弾、その執事職を免じることを尊氏に迫りこれを成し遂げた<ref>後任は甥で師泰の子・[[高師世|師世]]。</ref>すると直義はこれを機に師直の徹底的排除に乗り出す。『[[太平記]]』にはこの時直義方による師直の暗殺未遂騒動まであったことが記されているが、直義はさらに光厳上皇に師直追討の[[院宣]]の渙発を奏請してまで師直を討とうとしている。
 
同年8月12日、師直は[[河内国|河内]]から軍勢を率いて上洛した師泰と合流して、直義を一気に追い落とす逆クーデターを仕掛け成功する。意表を衝かれた直義は翌13日に尊氏の屋敷に逃げ込み、これで危機を脱するかに見えた。しかし師直方の軍勢は、そこが将軍御所であろうとまったく意に介さずこれを包囲した上で、君側の奸臣として上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを要求した。直義にとってこの両名を失うことは両腕をもがれるようなものなのでこれを許さなかったが、それならばと師直は包囲網を固めて兵糧攻めの構えを見せる。すったもんだの末に禅僧[[夢窓疎石]]が仲介に奔走し、ここに重能・直宗を配流とすること、そして直義は出家して幕政からは退くことの2条件のもとに師直は包囲を解くことに同意、ここに創業間もない足利幕府の屋台骨を揺るがせた政変もひとまず終息に向った。
 
直義に替わって幕府の政務統括者となったのは、鎌倉を治めていた尊氏の嫡男・[[足利義詮|義詮]]だった。そしてこの義詮の帰洛と入れ替わりに鎌倉に下向したのは、新たに初代[[鎌倉公方]]として関東の統治を任された義詮の弟・[[足利基氏|基氏]]だった。基氏には実務者として上杉憲顕をつけ、これを関東執事に還任してその輔佐にあたらせた。しかし憲顕は他でもない重能の兄である。師直はこれを警戒して、関東執事の定員を2名に増員した上で高師冬をこれに還任して目付にした。
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この一連の政変を通じてその立場が判然としないのが、師直と直義の間にあって終始揺れ動いた尊氏である。その動静をめぐっては、局外中立を貫いていたとする説、優柔不断で日和見をしていたとする説、そもそも尊氏は直義方を排除するために師直と示し合わせていたとする説など、さまざまな解釈がある。<!--またこの頃までに、尊氏の庶子である[[足利直冬|直冬]]が直義の養子となっているが、足利家では庶子の認知を認めておらず(太平記 巻32)、こうした方針に背く直義への批判と、足利嫡男の義詮の存在を脅かす直冬の排斥の必要があった可能性もある。--><!-- ← ??? 尊氏が庶子の直冬を認知しなかったのと、直義がそれを養子にとったのとは、そもそも次元の異なる問題ではないかと-->いずれにしてもこの一件は、それまでは曲がりなりにも協調路線を取っていた尊氏と直義がついにその袂を分かつ発端となった。
 
同年11月に義詮が入京すると、直義は12月8日、直義は出家して恵源と号した。ところが早くもその月のうちに上杉重能と畠山直宗が配流先で師直配下の者に暗殺されるという事件が出来する。ここに師直と直義の間の緊張は再び高まった<ref>森、P111 - P115</ref>。
 
== 擾乱の勃発 ==