「ポンパドゥール夫人」の版間の差分

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==生涯==
1721年[[パリ]](現在の[[2区 (パリ)|パリ2区]]界隈)の銀行家の娘として生まれる。平民という身分ながら[[ブルジョワジー|ブルジョワ階級]]の娘として、[[ポワシー]]で貴族の子女以上の教育を受けて育つ。成績は非常に優秀であった。[[1741年]]に[[徴税請負人]]の[[シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオール]]と結婚。タンサン夫人<ref>あるいはマダム・タンサン ([[:fr:Claudine Guérin de Tencin|Claudine Guérin de Tencin]])。[[百科全書派]]の[[啓蒙思想家]][[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]の生母とされているが、産まれてまもなくダランベールを[[シテ島]]に遺棄した。</ref>やジョフラン夫人<ref>タンサン夫人等と同様、[[サントノーレ通り]]界隈にサロンがあった。また、ポンパドゥール夫人ことジャンヌ・ポワソンも同通り沿いに居住していた。「[[サントノーレ通り#主な施設・出来事]]」を参照。</ref>の超一流[[サロン]]に出入りするようになり、[[ヴォルテール]]や[[ベルナール・フォントネル|フォントネル]]ら一流の文化人と知り合った。[[1744年]]にはその美貌が[[マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール|シャトールー公爵夫人]]の死に打ちひしがれていたルイ15世の目に留まった。彼女はポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、[[1745年]][[9月14日]]正式に[[公妾]]として認められた。
 
[[ファイル:POMPADOUR, marquise de (esquisse).jpg|thumb|150px|right|ポンパドゥール夫人([[モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール]]、1748-49年、もしくは1752年、アントワーヌ・レキュイエ美術館蔵)]]