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[[蕭エイ|蕭璿]]の子として曲阿郡武進県(現在の[[江蘇省]][[武進区|武進県]]の西北)に生まれる。祖父の安平王[[蕭巖]]は[[蕭キ|明帝(蕭巋)]]の弟であったが、後梁が廃されると[[開皇]]初年に隋に叛いて[[陳 (南朝)|陳]]に降り、陳が滅びると隋の文帝([[楊堅]])に処刑された。蕭銑は若い頃は貧困の中で事務雇いをして母に孝事した。[[煬帝]]は明帝の娘[[煬愍蕭皇后|蕭氏]]を皇后としていたことから、[[外戚]]として羅川県令に抜擢された。
 
[[大業]]13年([[617年]])、岳州校尉の[[董景珍]]・[[雷世猛]]、旅帥の[[鄭文秀]]・[[許玄徹]]・[[万瓚]]・[[徐徳基]]・[[郭華]]、沔陽の人の[[張 (隋)|張]]らが隋に叛くことを計画して、董景珍を主として推挙した。董景珍は、蕭銑が寛仁大度で[[梁 (南朝)|梁]]の[[蕭衍|武帝]]の威風があり、蕭氏の中興が反隋の旗印としてふさわしいとして、蕭銑を擁立した。蕭銑は梁公を称し、[[沈柳生]]を斬ると梁王を称して、[[鳳鳴]]と[[元号]]を立てた。
鳳鳴2年([[618年]])、梁の[[皇帝]]を称し、[[荊州区|江陵]]に都を置き、百官を置いて梁の旧制にならった。董景珍を晋王に、雷世猛を秦王に、鄭文秀を楚王に、許玄徹を燕王に、万瓚を魯王に、張を斉王に、[[楊道生]]を宋王に封じた。隋の[[張鎮州]]と[[王仁寿]]の攻撃を撃退した。隋が滅ぶと[[嶺南 (中国)|嶺南]]の[[甯長真]]らを降し、[[林士弘]]を豫章に破って、西は[[三峡]]、南は[[交州|交趾]]、北は[[漢水]]に至る広大な地域を帰服させ、兵40万を号した。[[荊州区|江陵]]には園廟を復した。[[岑文本]]を召して中書侍郎とし、機密を司らせた。楊道生に州を攻めさせたが、唐の州刺史の[[許紹]]に敗れた。
鳳鳴4年([[620年]])、唐の趙郡王[[李孝恭]]の攻撃を受けて通州・開州を奪われ、東平王[[蕭闍提]]を斬られた。蕭銑の梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を長沙から江陵に召還しようとしたが、恐れた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張を派遣して董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張を尚書令としたが、張は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張も処刑した。蕭銑は外面は寛容だったが、その内心は猜疑心深く、成功者を妬んだので、大臣や将軍たちの多くは叛き去り、蕭銑の梁は弱体化した。
鳳鳴5年([[621年]])、唐の李孝恭と[[李靖]]が[[重慶市|巴]][[蜀]]の兵を率いて[[長江]]を下り、廬江王[[李エン (廬江王)|李瑗]]が[[襄陽道]]を、黔州刺史の[[田世康]]が辰州道を出て、蕭銑の梁を攻めた。また[[周法明]]が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を派遣して李孝恭を阻ませたが、[[清江]]口に敗れ、戦艦多数を鹵獲された。宜昌・当陽・枝江・松滋を奪われ、江州で[[蓋彦挙]]が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、ついに唐の軍門に下り、ここに蕭銑の梁は滅亡した。