「インド・パキスタン分離独立」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
49行目:
 
===ガンディーの暗殺===
ヒンドゥー、イスラム両教徒のあいだの不信は、両者の融和を説いたガンディーに対する反発<ref>イスラム教徒の側からはガンディーの説く「融和」はヒンドゥー教徒優位のものと捉えられたことも事実であり、それが分離独立を後押ししたことも否めない。また、ガンディーのヒンドゥー教徒優位の(善意からではあったが)姿勢に対しては同様の批判が[[カースト]][[差別]]に苦しんでいた[[不可触民]]([[ダリット]])からもあり、[[ビームラーオ・アンベードカル]]([[インド憲法]]の起草者)が主導する[[新仏教運動]]へとつながっていく。</ref>を生むこととなった。特に[[民族義勇団]]などのヒンドゥー・ナショナリストからはイスラム教徒やパキスタン側に対して譲歩しすぎるとして敵対視された。その結果、翌[[1948年]][[1月30日]]、ガンディーは狂信的なヒンドゥー・ナショナリストによって[[デリー]]で[[暗殺]]される結果を招いた。[[非暴力]]を説いたガンディーが暴力の連鎖を止められず、自らもその中に倒れたことは悲劇の象徴として捉えられた。
 
[[File:India - Pakistan Refugees.ogv|thumb|インド・パキスタン間の難民(動画)]]
 
===印パ戦争から核開発へ===
また多くの[[藩王国]]はインド側の[[副首相]][[ヴァッラバーイ・パテール]]の巧みな交渉もありインドに帰属したが、大藩王国の[[ニザーム王国|ニザーム藩王国]]と[[ジャンムー・カシミール藩王国]]はその態度を最後まで決めかねており、[[1948年]][[9月]]インドはニザーム藩王国を強制併合したが、ジャンムー・カシミール藩王国においてはその帰属をめぐって[[第一次印パ戦争]]が発生し、その後の[[印パ戦争]]とへと続いていく。