「テトラルキア」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
15行目:
== 四皇帝領 ==
[[File:Wars-of-the-Tetrarchy.gif|thumb|300px|各皇帝の担当領域の変遷]]
それぞれが管理する領土を分割する以上、当然ながら各々の領土の中心となる「首都」も
=== 4人の宮廷と担当領域 ===
34 ⟶ 32行目:
これら4都市のほか、[[アドリア海]]に面した港町[[アクィレイア]]、[[スコットランド]]と[[アイルランド]]の[[ケルト人]]勢力に接する[[イングランド]]北部の[[エボラクム]]{{enlink|Eboracum|}}(現[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]])もまた、マクシミアヌスとコンスタンティウスにとって重要な防御拠点であった。
地方統治に関しては4人の皇帝に正確な領域区分は定められていなかった。テトラルキアはローマ帝国が4つに分裂したという状態を意味するものではない。4人の皇帝はおのおの勢力範囲を持っていたが、それは最高軍事指揮権を主としており、自身が出陣することも頻繁にあった。その間は各皇帝の近衛府長官や知事、総督を長とする官僚組織からなる行政府が執政を代行していた。西方では正帝マクシミアヌスはアドリア海と流砂の西方に位置する属州を管轄した。副帝コンスタンティウスはその領域内でガリアと[[ブリタンニア]]を統括した。
東方では正帝ディオクレティアヌスと副帝ガレリウスの間に明確な権力区分はなく、柔軟に運用されていた。[[キリスト教徒]]の作家[[ラクタンティウス]]{{enlink|Lactantius}}と[[アウレリウス・ウィクトル]]{{enlink|Aurelius Victor}}(約50年後の著述で信頼性は低い)をはじめとする幾人かの著述家は、4人の正副帝には確固たる勢力区分があったと述べているが、これはテトラルキアに対する理解が不十分であったためと思われる。
47 ⟶ 45行目:
[[Image:Raphael-Constantine at Milvian Bridge.jpg|260px|thumb|ミルウィウス橋の戦いのコンスタンティウス1世。[[ラファエロ・サンティ]]作のフレスコ画。バチカン宮殿所蔵]]
=== 成立過程 ===
ディオクレティアヌスが自らのテトラルキア体制を確立するまでには段階があり、慎重に権力の移譲が進められていった。まず最初に腹心で[[285年]]に副帝へ叙任されていた[[マクシミアヌス]]を[[286年]]に共同皇帝に昇格させ、領土の支配権を分与して二頭政治を確立した(第一段階)。この体制化では重要度の高かった帝国東方の諸属州を抑えるのにディオクレティアヌスが専念するため、マクシミアヌスが[[イタリア本土 (古代ローマ
293年、皇帝と共同皇帝がそれぞれ副帝を新たに叙任するという新しい試みがディオクレティアヌスから提案され、マクシミアヌスも了承した(東方副帝・西方副帝)。かくしてガレリウスとコンスタンティウス・クロルスが副帝に昇格し、帝国は四分された(第二段階)。305年に老齢を理由にディオクレティアヌスとマクシミアヌスが退位すると、そのまま二人の副帝は皇帝へ昇格した。空席となった二つの副帝も新たに[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]]と[[マクセンティウス]]が任命され、人物を変えながらもテトラキア体制は継承された。
|