「エアバスA300」の版間の差分

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{{ Infobox 航空機
| 名称=エアバスA300
| 画像=Fileファイル:A300 Iran Air EP-IBT THR May 2010.jpg
| キャプション=[[イラン航空]]のA300B2-203
| 用途=[[旅客機]]、[[貨物機]]
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その他、1座席を1マイル飛ばすためのコストは[[ボーイング727|727-100]]より30パーセント低く、在来機よりも低騒音、自動着陸を可能とすることなども要求に盛り込まれた{{sfn|松田|1981a|p=53}}。
 
[[Fileファイル:Pan Am Boeing 747-100 Clipper Unity.jpg|thumb|200px|[[パンアメリカン航空]]の747。ボーイングは[[アメリカ空軍|米空軍]]の大型輸送機の受注に失敗した後、超大型旅客機747を開発した。]]
一方、[[アメリカ合衆国|米国]]でも1960年代中頃に大型旅客機を求める動きが盛り上がっていた{{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|久世|2006|pp=135–141}}{{sfn|青木|2010|p=123}}。1965年秋に[[アメリカ空軍|米空軍]]の大型輸送機[[C-5 (航空機)|CX-HLS]]の受注に失敗したボーイングは、その設計チームと培われた技術をもって超大型機[[ボーイング747|747]]を開発することを決定した{{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|久世|2006|pp=135–141}}。これは[[パンアメリカン航空]]がメーカーに開発を呼びかけていた機材でもあった{{sfn|久世|2006|pp=135–141}}。また、[[1966年]]3月には[[アメリカン航空]]が米国内幹線に適した「大型双発機」の要求仕様を発表し、メーカーに開発を促していた{{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|久世|2006|pp=135–141}}。これら米国の大型旅客機計画と比べると、欧州エアバスの要求仕様は特に航続距離が短く、欧州域内の輸送に適した旅客機を目指している点が特徴だった{{sfn|松田|1981a|p=53}}。
 
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|+ {{nowrap|表1: A300の生産・開発費分担と1978年までのエアバス・インダストリーへの出資比率}}
|-
! style="white-space:nowrap" | 国名
! style="white-space:nowrap" | 企業名
! style="white-space:nowrap" | 生産分担部位
! style="white-space:nowrap" | 生産シェア{{sup|†1}}
! style="white-space:nowrap" | 開発費分担
! style="white-space:nowrap" | 出資比率
|-
|style="text-align:center;"| {{Flagicon|FRA}}<br />{{nowrap|フランス}}
|style="text-align:center;"| {{nowrap|[[アエロスパシアル]] }}
| 機首部、胴体中央下部、中央翼、パイロン、最終組み立て
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|style="text-align:right;"| 47.9%
|-
|style="text-align:center;"| {{Flagicon|GER}}<br />{{nowrap|西ドイツ{{sup|†3}} }}
|style="text-align:center;"| {{nowrap|ドイチェ・エアバス}}
| 胴体前方、胴体中央上部、胴体後方、尾部、[[垂直尾翼]]、非常口ドア、客室内装
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|style="text-align:right;"| 47.9%
|-
|style="text-align:center;"| {{Flagicon|GBR}}<br />{{nowrap|イギリス}}
|style="text-align:center;"|[[ホーカー・シドレー]]
| 主翼
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|style="text-align:right;"| 0%
|-
|style="text-align:center;"| {{Flagicon|NED}}<br />{{nowrap|オランダ}}
|style="text-align:center;"| [[フォッカー]]
| 主翼の[[動翼]]
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|style="text-align:right;"| 0%
|-
|style="text-align:center;"| {{Flagicon|ESP}}<br />{{nowrap|スペイン}}
|style="text-align:center;"| {{仮リンク|コンストルクシオネス・アエロナウティカス|label=CASA|en|Construcciones Aeronáuticas SA}}
| [[水平尾翼]]、機首の乗降用ドア、[[降着装置]]の格納扉
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=== 設計の過程 ===
[[Fileファイル:Singapore Airlines Airbus A300 Fitzgerald.jpg|thumb|左前方から見た[[シンガポール航空]]のA300。]]
[[Fileファイル:Airbus A300B2-1C, Lufthansa AN1172210.jpg|thumb|A300B2の右側面。ルフトハンザ航空の塗装。]]
A300の設計は計画が紆余曲折していた間も進行しており、生産設計と治具類の設計・制作は1969年5月の計画の正式決定とほぼ同時に開始されていた{{sfn|松田|1981a|p=55}}。
 
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イギリス政府が離脱したことで{{nowrap|R-R}}製エンジンにこだわる必要が無くなったことから、当時欧州の主要航空会社が発注していたDC-10-30<ref group="注釈">DC-10シリーズの1型式</ref>と同じGE製のCF6エンジンが採用された{{sfn|松田|1981a|p=55}}。また、エンジン本体だけでなく[[カウル|エンジンポッド]]や補助動力装置、エアコン装置などもDC-10と同じものが用いられた{{sfn|松田|1981a|p=55}}。
 
[[Fileファイル:Airbus A300 cross section.jpg|thumb|A300の胴体断面モデル。客室には通路2本と横8席の座席を配置でき、床下貨物室にはLD-3航空貨物コンテナを並列に収納できる。]]
A300の胴体断面は外径5.64メートルの真円形となった{{sfn|藤田|2001a|pp=44&ndash;45}}。この胴体径は、必要な座席数を満たしつつ床下貨物室にLD-3[[航空貨物]]コンテナを左右並列に搭載できる寸法として決定された{{sfn|浜田|2010a|pp=96&ndash;97}}{{sfn|藤田|2001a|pp=44&ndash;45}}。構想初期には747の胴体幅に迫る6.4メートルという外径から始まったが、客席数の変更などに合わせて修正が重ねられて最終的に外径5.64メートルに落ち着いた{{sfn|藤田|2001a|pp=44&ndash;45}}{{sfn|浜田|2010a|pp=94&ndash;97}}。
 
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A300の主翼は、断面の変化とねじり下げ{{refnest|group="注釈"|翼端部の失速を防ぐように、翼根部よりも翼端側での[[迎角]]を小さくすること{{sfn|李家|2011|p=136}}}}により翼幅方向にほぼ一様の圧力分布を持つように設計された{{sfn|松田|1981b|p=104}}。それに伴いA300の主翼表面は翼根と翼端で異なる曲面を持つことになった{{sfn|Obert|2009|p=255}}。主翼の製造を担当したホーカー・シドレーは、当時このような二重曲率の外板を製造できる設備をもっていなかったため、エンジンパイロンのやや外側を境として翼を外側と内側に2分割して製造し、継ぎ手で繋ぐ構造が採用された{{sfn|松田|1981b|p=107}}{{sfn|Obert|2009|p=255}}。
 
[[Fileファイル:Airbus A300B2-203, Iran Air AN1213609.jpg|thumb|left|前方左下から見上げたA300B2。[[降着装置]]を下ろして[[高揚力装置]]を展開している。]]
主翼には[[高揚力装置]]として前縁にスラット、後縁にフラップが設けられた{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。スラットは主翼のほぼ全幅にわたり配置され、エンジンパイロンの付け根で他機ではスラットが途切れる部分にも、パイロンを避ける切り欠きを入れることでスラットを通し揚力を稼いだ{{sfn|青木|2010|p=68}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。フラップはタブ付きのダブルスロット型ファウラーフラップが採用され、後縁翼幅の84パーセントにわたる当時の大型民間機では例のない大きさとなった(フラップの詳細は[[#形状・構造|形状・構造節]]参照){{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。主翼の[[補助翼|エルロン]]は片翼あたり2枚で、外翼部に低速度エルロン、エンジン後方部に全速度エルロンが配置された{{sfn|松田|1981b|p=104}}。エルロンを2枚持つのは当時の大型ジェット旅客機としては一般的ではあったが、28度という浅い後退角の翼では珍しかった{{sfn|藤田|2001a|p=49}}{{sfn|松田|1981b|p=105}}。また、[[ローリング|ロール]]方向の操縦にはエルロンだけでなく、[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]も用いるよう設計された{{sfn|松田|1981a|p=56}}。
 
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=== 生産と試験 ===
[[Fileファイル:Prototype Airbus A300 and Concorde at Toulouse.jpg|thumb|国際共同開発されたA300と[[コンコルド]]。最終組み立ては共にフランスの[[トゥールーズ]]で行われた。]]
4機の試作機と2機の強度試験機の部品製作は1969年12月から開始された{{sfn|松田|1981a|p=55}}。各国のメーカーで製造されたコンポーネントは1971年にフランス・[[トゥールーズ]]にあるアエロスパシアルの工場に集められた{{sfn|松田|1981a|p=55}}。コンポーネントを輸送するため、[[ボーイング377]]を大型貨物運搬用に改造した「[[スーパーグッピー]]」を{{仮リンク|エアロスペースラインズ|en|Aero Spacelines}}社から購入し、1971年11月から運用を開始した{{sfn|青木|2010|p=131}}。
 
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* 主翼内側の[[補助翼|エルロン]]を操作すると水平尾翼に想定以上の荷重がかかることが分かったため、内側エルロンの舵角を減らし、[[ローリング|ロール]]方向の操縦に用いる[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]の枚数を増やしたほか、外側エルロンが動作する条件を拡大した。
 
[[Fileファイル:Airbus A300B2-103, Airbus Industrie JP5644295.jpg|thumb|A300の通算3号機。エアバス・インダストリーはコーポレートカラーにレインボーカラーを採用した。]]
試験で確認された運用限界や性能は、控えめに設定されていた計画値を上回った{{sfn|松田|1981a|p=56}}。最大運用限界マッハ数は0.84から0.86に引き上げられたほか、所要滑走路長は4 - 6%短くて済み、最大揚力係数は8 - 10%高くなったのでフラップの最大角度が減らされた{{sfn|松田|1981a|p=56}}。
 
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=== 就航開始 ===
[[Fileファイル:Airbus A300B2-101, Air France AN2111996.jpg|thumb|エールフランスはA300の最初の発注者であり最初の運航者となった。]]
1974年5月23日、エールフランスのパリ - ロンドン線でA300は初就航した{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}{{sfn|松田|1981a|p=56}}。就航したA300は予想よりトラブルは少なく、乗客や乗員からも好評だった{{sfn|松田|1981a|p=56}}。主なトラブルと改修内容としては、気流の乱れに起因する方向舵の破損例が見つかり、気流を乱す隙間が塞がれて方向舵の構造も改良されたほか、フラップが正常に動作しない可能性が見つかり、フラップの作動機構が変更された{{sfn|松田|1981a|p=56}}。また、客室後部の横揺れが指摘されヨーダンパ{{refnest|group="注釈"|[[方向舵]]を自動操舵して[[ヨーイング|ヨー運動]]を小さくする安定性増大装置{{sfn|久世|2006|p=119}}<ref name=encyclopedia-156>{{Citation|和書 |last=上野 |first=誠也 |contribution=安定性増大装置 |editor= 飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=156&ndash;159 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>。}}が改良された{{sfn|松田|1981a|p=56}}。その他、エアコンダクトや貨物積載装置の不具合対策、電波障害対策などが実施された{{sfn|松田|1981a|p=56}}。就航後3か月頃から定時出発率は約97%に安定してワイドボディ大型機としては良好であった{{sfn|松田|1981a|p=56}}。
 
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販路拡大のため、エアバス・インダストリーはA300の性能向上に努め、A300B2・B4ともに[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]や燃料搭載量を増やせるよう最大離陸重量を引き上げたほか、A300B2では離陸性能向上型が開発された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。
 
[[Fileファイル:Airbus A300B2K-3C, Fly Air AN0423133.jpg|thumb|左前方から見たA300B2K。主翼の付け根にクルーガー・フラップを備える。A300のスラットにはエンジンパイロンを避ける切り欠きがある。]]
A300B2の最大離陸重量を142トンとしたタイプは1975年6月20日に型式証明を取得し、座席数269席での航続距離は1,400海里(約2,590キロメートル)から1,800海里(約3,330キロメートル)に向上した{{sfn|松田|1981a|p=57}}。また、A300B4で採用されたクルーガー・フラップをA300B2にも装備して高地や高温地域での離陸性能を向上させたタイプも開発された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。このタイプはA300B2Kと名付けられ、[[南アフリカ航空]]から初受注した{{sfn|松田|1981a|p=57}}。A300B2Kの初号機は通算32号機で[[1976年]]7月30日に初飛行し、同年11月23日に納入された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。
 
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同年12月13日、イースタン航空はA300の路線就航を開始した{{sfn|松田|1981a|p=58}}。イースタン航空のA300は、評価という目的もあり条件が厳しい路線に投入されたが、1日あたり平均8.4時間、定時出発率98.4%という優れた運航実績を示した{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。イースタン航空が特に気にしていたエアバス・インダストリーの製品サポートに問題は無く、乗客からの評判も上々であった{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。
 
[[Fileファイル:Airbus A300B2-202, Eastern Air Lines JP5949899.jpg|thumb|イースタン航空が運航したA300B2。[[ニューヨーク]]の[[ラガーディア空港]]にて。同社からの受注によりエアバス・インダストリーはアメリカ市場への進出に成功した。]]
ただ、[[ニューヨーク]]の[[ラガーディア空港]]への乗り入れが問題となった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。空港を管理する[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社|ニューヨーク港湾局]]が、空港の水上部分の強度上の理由によりA300の109トン以上での離陸を認めなかったのである{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|pp=125&ndash;126}}。話し合いの結果、エアバス側が水上部分のコンクリート補強費用50万ドルを負担するとともに、A300の主脚の車輪間隔を広げる改造を18か月以内に行うことを条件に、138トンまでの離陸が認められ、これによりラガーディア - [[マイアミ国際空港|マイアミ]]間の直行便の運航が可能となった{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=126}}。
 
エアバス・インダストリーは本格的にA300の購入を検討し始めたイースタン航空に対し、購入額の大部分に好条件の融資を行った{{sfn|青木|2010|p=126}}。さらに、イースタン航空が元々望んでいたのは170席程度の機材であったことから、より大型のA300で運航コストが嵩んだ分を[[1982年]]までエアバス・インダストリーが保証するという金融的措置まで行った{{sfn|山崎|2009|p=225}}{{sfn|青木|2010|p=126}}。こうして1978年4月にイースタン航空からA300B4を確定23機、オプション9機を発注し、エアバス・インダストリーはA300の米国の航空会社への売り込みに成功した{{sfn|青木|2010|p=126}}。
 
[[Fileファイル:Iberia Airbus A300B4-120 EC-DLG.jpg|thumb|[[イベリア航空]]のA300B4。同社はA300B4の最初の発注者となったが一度キャンセルし、後に再発注した。]]
イースタン航空によるA300の運航は好調で、同社は「今までの機材中最高」と評価した{{sfn|松田|1981a|p=58}}。ちょうどこの頃から世界の航空業界も不況を切り抜け経営を立て直しつつあった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。航空機需要が上向きになり、1977年後半からA300の販売は急に売れ出した{{sfn|松田|1981a|p=58}}。石油危機による燃料費の高騰が長期に渡ったことで、双発で大人数を乗せられるA300の経済性が認められることとなった{{sfn|谷川|2016|loc=位置No.995/2772}}。[[スカンジナビア航空]]や[[アリタリア-イタリア航空|アリタリア航空]]に加え、[[タイ国際航空]]や[[ガルーダ・インドネシア航空]]、そして日本の[[東亜国内航空]]といった欧州以外の航空会社からも新規受注を獲得した{{sfn|松田|1981a|p=58}}。エールフランスやルフトハンザ航空の追加発注やイベリア航空からの再発注も加わり、確定受注数は1977年が20機、1978年が70機、1979年も前半だけで50機に達し、エアバス関係者も予想していなかった売れ行きとなった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。一転してA300の増産が決まり、1979年には月産2.5機、[[1980年]]の通算118号機完成後からは月産3機となった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。
 
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A300の販売好転とA310の開発決定という将来性が見えてくると、これまで様子見をしていたイギリス政府が方針を変えた{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|粂|2007|p=27}}。イギリスは、1977年4月29日にホーカー・シドレーを含む航空機メーカー4社を統合し、国有企業として[[ブリティッシュ・エアロスペース]](以下、BAe)を設立させた{{sfn|日本航空宇宙工業会|2007|p=270}}{{sfn|青木|2010|pp=126&ndash;127}}。そして1978年11月、イギリス政府のエアバス計画への加盟が決定した{{sfn|松田|1981a|p=59}}。エアバスの苦しい時期を支えてきたフランス政府は、このイギリス政府の態度に反発したが、同じくエアバスを支えてきたドイツ政府は米国へ対抗するためにはイギリスの力を無視できないと考え、最終的にイギリス政府の参加が実現した{{sfn|松田|1981a|p=59}}。
 
[[Fileファイル:Airbus A310-221, Swissair AN0521293.jpg|thumb|left|[[スイス航空]]のA310-200。同社はルフトハンザ航空と共にA310の最初の発注者となった。]]
A310の胴体は、A300の胴体から平行部分で11フレーム短縮された{{sfn|青木|2014|p=123}}{{sfn|浜田|2010b|p=94}}。また、このままでは機体重心から[[尾翼]]までの距離が長くなってしまうので、圧力隔壁の後方にあたる尾部も2フレーム短縮されて尾部の絞り込みがA300より急角度になった{{sfn|青木|2010|p=71}}。これにより、A310の全長はA300B2より6.96メートル短縮された{{sfn|浜田|2010b|p=94}}。初期のA310構想では主翼やシステム類はA300のものを流用して開発費を抑える考えだったが、ボーイングが全くの新規開発で双発ワイドボディ機「7X7」(のちの[[ボーイング767|767]])を研究していたことから、それに対抗するためエアバス・インダストリーはA310にできるだけ新技術を盛り込むことにした{{sfn|青木|2010|p=71}}。短縮した全長に合わせて主翼は新規に設計された{{sfn|青木|2010|p=71}}。当時、デジタル通信・制御技術が急速に進歩していたことと、航空会社が直接運航費の抑制を求めていたことから、アナログ式だったA300の機体システムは全面的にデジタル式へ設計変更され、自動化技術や[[フライ・バイ・ワイヤ]]技術も導入され、いわゆる[[グラスコックピット]]化された{{sfn|土井|1991|pp=3&ndash;4}}<ref name=FI-1984-0474/>{{sfn|青木|2014|p=123}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=14}}。これらにより、A310は標準仕様で操縦士2人で運航可能なワイドボディ機となった{{sfn|青木|2014|p=123}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=14}}。A310では水平尾翼と降着装置も新設計となったほか、[[炭素繊維強化プラスチック]] (CFRP) などの[[複合材料]]の使用範囲も拡大された{{sfn|浜田|2010b|pp=94&ndash;96}}{{sfn|青木|2010|p=71}}{{sfn|藤田|2001a|p=49}}。
 
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=== A300-600の開発 ===
[[Fileファイル:Lufthansa Airbus A300B4-603 (3202423847).jpg|thumb|駐機中のA300-600を正面から見る。左舷前方の乗降用ドアに[[ボーディング・ブリッジ]]が接続されている。A300-600はA300第1世代と同じ胴体断面を用いた。]]
{{main|エアバスA300-600}}
エアバス・インダストリーはA310だけでなく、A300への新技術投入も早くから考えていた{{sfn|粂|2007|p=29}}。新しいA300では、A310との競合を避けるため座席数を少し増やしつつ、A310と同じ2人乗務のコックピットを導入してA300とA310の運航の共通性を高めることになった{{sfn|青木|2010|p=75}}。この次世代型A300の機体構造はA300B4をベースに開発され、正式な型式名はA300B4-600と名付けられたが、一般的にA300-600と呼ばれるようになった{{sfn|土井|1991|p=4}}{{sfn|藤田|2001b|p=64}}。本項では以下、A300-600より前に開発されたA300シリーズをA300第1世代、A300-600およびその派生型をA300-600シリーズと呼ぶ。
 
[[Fileファイル:Finnair A300B4 OH-LAB at LPFR 19920903.jpg|thumb|left|[[フィンエアー]]のA300B4。操縦士2人での運航も可能になったFFCC仕様機である。]]
2人乗務のコックピットは、A300第1世代の頃から研究されていた{{sfn|土井|1991|p=4}}。A300第1世代の通常仕様では、航空機関士が操作する機器類は主にコックピット内の右舷側にあるが、エンジン始動後は航空機関士が前方向きに座って飛行できるよう操作パネルが配置されていた{{sfn|松田|1981b|p=111}}。エアバス・インダストリーは、この考えを一段と進めて航空機関士を必要とせず操縦士2名だけでの運航も可能なFFCC(Forward Facing Crew Cockpit の略)と呼ばれるコックピットを開発した{{sfn|松田|1981b|p=111}}{{sfn|EASA|2014|p=28}}<ref name=FI-1981-1114>{{Citation |title=Airbus races through two-man A300 certification |journal=Flight International |date=1981-11-14 |page=1460 |format=PDF |language=English |url=https://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1981/1981%20-%203564.html}}</ref>。A300のFFCC仕様機は[[1981年]]10月6日に初飛行し、ワイドボディ機として世界初となる操縦士2名だけでの飛行を3時間40分実施した<ref name=norris_wagner>{{Citation |title=Airbus |last1=Norris |first1=Guy |last2=Wagner |first2=Mark |pages=23&ndash;24 |isbn=9780760306772 |year=1999 |publisher=MBI Publishing Company |url=https://books.google.co.jp/books?id=6x7TXv1wnHoC}}</ref>。FFCC仕様機の試験は順調に進み、1982年にガルーダ・インドネシア航空に対して初引き渡しが行われた<ref name=norris_wagner/><ref name=airbus>{{Cite web |title=Technology leaders (1977-1979) | Airbus, a leading aircraft manufacturer |publisher=Airbus S.A.S |url=http://www.airbus.com/company/history/the-narrative/technology-leaders-1977-1979/ |accessdate=2015-10-03 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20150925104335/http://www.airbus.com/company/history/the-narrative/technology-leaders-1977-1979/ |archivedate=2015-09-25}}</ref>。また、[[1980年代]]前半にA300の垂直安定板の前縁や主脚扉などをCFRP製とした試作品の開発や実証試験も行われていた{{sfn|松田|1981b|p=107}}。
 
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A300第1世代は1980年から82年にかけて引き渡し数のピークを迎えたが{{sfn|浜田|2010a|p=97}}、A300-600の登場により役割を終え、[[1985年]]1月2日に初飛行した通算304号機を最後に生産を終了した{{sfn|青木|2010|p=69}}{{refnest|group="注釈"|通算製造番号でいうとA300第1世代の最終号機は305号機であるが、こちらは304号機より先に初飛行している{{sfn|青木|2010|p=69}}。}}。304号機はシンガポール航空の発注により製造されていたが、発注が変更されたことでアメリカン航空に納入された{{sfn|青木|2010|p=69}}。A300第1世代の生産数は250機で1号機を除く249機が顧客に納入された{{sfn|佐藤|2001}}。
 
[[Fileファイル:Airbus A300B4-203(F), Canarias Cargo AN0361347.jpg|thumb|A300の貨物型改造機の前方部。前方乗降用ドアの後ろにメインデッキの貨物扉がある。]]
エアバス・インダストリーでは早くからA300の貨物専用型となるA300F4も提案していた{{sfn|藤田|2001b|p=57}}。新造機での発注はなかったが、旅客型からの改造の受注があった{{sfn|藤田|2001b|p=57}}{{sfn|青木|2010|p=69}}。通算277号機がA300F4への改造初号機となって[[1986年]]6月6日に型式証明を取得し、大韓航空に引き渡された{{sfn|EASA|2014|p=22}}。
 
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エアバス・インダストリーは、A310とA300-600に続く製品開発も進め、同社初の単通路機([[ナローボディ機]])である[[エアバスA320|A320]]を開発した{{sfn|青木|2014|p=113}}。A320での飛行制御システムはA300-600から一段と進化し、完全なグラスコックピットとなり操縦装置も従来の[[操縦桿]]に替えてサイドスティックが採用された{{sfn|青木|2010|p=52}}。旅客機へのサイドスティックの導入はこれが初めてであり、A300の3号機を試験機に充てて新しいコックピットとシステムを組み込んで入念な試験飛行が行われた{{sfn|青木|2014|p=116}}。A320は1987年2月に初飛行して1988年2月に型式証明を取得し、1988年3月に航空会社への引き渡しが始まった{{sfn|青木|2014|p=113}}。
 
[[Fileファイル:HB-JMA@ZRH;16.01.2010 561ev (4283105698).jpg|thumb|併走する[[スイス インターナショナル エアラインズ]]のA340-300(手前)とA330-300(奥)。両機種でもA300由来の胴体断面設計を用いられた。]]
さらにワイドボディ機の分野でも、エアバス・インダストリーはA300より大型で長航続距離の旅客機市場へ進出を図り、大型双発機の[[エアバスA330|A330]]と4発機の[[エアバスA340|A340]]を同時並行的に開発した{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=29}}{{sfn|浜田|2013a|p=94}}。A340は[[1993年]]2月、A330は[[1994年]]1月にそれぞれ路線就航を開始した{{sfn|浜田|2013b|p=94}}。A330とA340の胴体断面はA300と同じものが用いられたが、主翼は新設計となったほか、A320と共通性の高いコックピットやシステムが導入された{{sfn|青木|2010|pp=36&ndash;40, 44&ndash;46}}。A320以降の操縦システムの共通化により、[[相互乗員資格]](Cross Crew Qualification, 以下CCQ)制度が認められ、対象機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の転換訓練で別機種の操縦資格を取得できるようになった{{sfn|青木|2010|pp=37&ndash;38, 44&ndash;46}}。
 
[[Fileファイル:Airbus A300 Beluga Pryde.jpg|thumb|A300-600ST「ベルーガ」。]]
エアバス・インダストリーは、A320以降の機種でも参加各国でパーツやコンポーネントの生産を分担する体制を続けていた{{sfn|青木|2010|pp=131&ndash;135}}。これまで、参加各国で生産されたコンポーネントの輸送には「スーパーグッピー」輸送機が用いてきたが、同機が旧式化したことに加え、エアバス・インダストリーの事業が急成長したことで、これに対応するために新しい輸送機が必要になった<ref name=CNN1/><ref name=CNN2/>。そこで、[[1991年]]8月、エアバス・インダストリーはA300-600Rをベースとした新型輸送機[[エアバス ベルーガ|A300-600ST「ベルーガ」]]を開発することを正式決定した{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=13}}。A300-600STは、主翼やエンジンなどをA300-600Rと同じくし、大型貨物を収容できるよう胴体上半分が極めて太いものとなった{{sfn|青木|2010|p=78}}。A300-600STは1994年9月13日に初飛行し、[[1995年]]10月25日に引き渡しが始まった{{sfn|青木|2010|p=79}}。A300-600STは2001年までの間に5機生産され、全機がエアバス子会社の「エアバス・トランスポート・インターナショナル」(Airbus Transport International)で運航され、これによりエアバス機の生産に従事していたスーパーグッピーは全機退役した{{sfn|青木|2010|p=79}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=13}}。
 
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=== 形状・構造 ===
[[Fileファイル:Onur Air Airbus A300 Karakas.jpg|thumb|左後方やや上から見下ろしたA300B4。]]
A300の最大の特徴として、250席から300席級というサイズの旅客機を双発機として実現したことがあげられる{{sfn|松田|1981b|p=102}}。A300は、客室内に2本の通路をもつワイドボディ機である{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}{{sfn|久世|2006|p=139}}。片持ち式の主翼を低翼に配置した[[単葉機]]であり、左右の主翼下に1発ずつ[[ターボファンエンジン]]を備える{{sfn|渡邊|1981a|pp=5&ndash;7}}。[[尾翼]]も低翼配置で垂直・水平尾翼ともに胴体尾部に直接取り付けられている{{sfn|渡邊|1981a|pp=5&ndash;6}}。[[降着装置]]は前輪式配置で機首部に前脚、左右の主翼の付け根に主脚がある{{sfn|青木|2010|p=68}}。A300第1世代の機体全長は53.62メートル、全幅は44.84メートル、全高は16.53メートルである{{sfn|藤田|2001b|p=57}}<ref group="注釈" name=length/>。
 
[[Fileファイル:Translift Airways Airbus A300 Aragao.jpg|thumb|A300B4の右側面。尾部に向けて絞り込まれている胴体後部では客室床も後ろ上がりに傾斜しており、それに合わせて客室窓も少しずつ上がっている。]]
A300の胴体は真円形断面で外径が5.64メートル、胴体長はA300B2/B4で52.03メートルである{{sfn|渡邊|1981a|p=4}}。A300の胴体外径は巡航時の抵抗を抑えるため、同時期に開発されたワイドボディ機のDC-10(6.03メートル)やL-1011(5.97メートル)よりも細い{{sfn|浜田|2010a|pp=96&ndash;97}}{{sfn|渡邊|1981a|pp=5&ndash;6}}。胴体構造は円形断面のフレーム(円框)と前後方向に延びる縦通材、そして外板の組み合わせで強度を保つ{{sfn|李家|2011|pp=230&ndash;231}}{{sfn|久世|2006|pp=55&ndash;57}}[[モノコック|セミモノコック構造]]である{{sfn|渡邊1981a|pp=8&ndash;9}}。フレームは21インチ(53センチメートル)間隔で配置され、1座席列に最低1か所の窓が確保できるようになっている{{sfn|渡邊1981a|pp=8&ndash;9}}。A300は胴体尾部がかなり細長くなっているのが特徴で、離着陸時に引き起こし角を十分にとれるよう尾部下面を大きく跳ね上げた形状となっている{{sfn|藤田|2001a|p=47}}。これにより客室後部の床は、後方に向かって僅かに上り勾配がつけられている{{sfn|藤田|2001a|p=47}}。尾部を長くしたことで尾翼面積が小さく済み、巡航時のトリム抵抗低減などの利点があるとされたが、発展型のA300-600では胴体の平行な部分を延ばして尾部構造は短縮されている{{sfn|藤田|2001a|p=47}}{{sfn|松田|1981b|p=105}}。
 
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主翼[[翼平面形|平面形]]の主なパラメータを見ると、全幅が44.84メートル、主翼面積が260平方メートルでアスペクト比{{refnest|group="注釈"|name=aspect_ratio|アスペクト比とは翼幅の2乗を面積で割った値で翼の細長比を示す値である<ref name=encyclopedia-314/>。}}は7.7である{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。25パーセント翼弦における後退角が28度と比較的浅い一方、翼厚比{{refnest|group="注釈"|name=wing_thickness|最大翼厚を翼弦長で割った値<ref name=JAL-dict-p030>{{Cite web |title=航空実用事典 翼型と翼 |publisher=日本航空 |url=http://www.jal.com/ja/jiten/dict/p030.html |accessdate=2014-11-29 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20150508210942/http://www.jal.com/ja/jiten/dict/p030.html |archivedate=2015-08-05}}</ref>}}は10.5パーセントとやや厚めである{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。浅い後退角は低速時の操縦性を向上しやすいほか、翼根部の[[曲げモーメント]]の低減にも繋がり、厚い翼厚比と合わせて構造強度上有利であり構造重量の低減が図られている{{sfn|李家|2011|p=132}}{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。
 
[[Fileファイル:Subsonic and trans-sonic airfoils.svg|thumb|翼型(翼断面)の模式図。上が従来の翼型で、下がリア・ローディング翼型の特徴を持つ遷音速翼型である。図中の''A''は[[超音速]]領域、''B''は[[衝撃波]]、''C''は[[境界層|境界層剥離]]を表す。]]
主翼の[[翼型]]には開発当時の最新技術である「リア・ローディング翼型」が採用されている{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。この翼型の翼断面は前縁が大きな丸みを帯び、上面は比較的平らで下面は後縁がえぐられたような形状である{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|松田|1981b|p=103}}。高亜音速や遷音速<ref group="注釈" name=transonic/>で飛行すると、機体の飛行速度が[[マッハ数|マッハ]]1以下でも翼面上を流れる空気は局所的に音速を超えることがある{{sfn|李家|2011|p=119}}。音速を超えた気流は大きな負の圧力を示し、翼を引きつけるよう作用する{{sfn|李家|2011|p=120}}。しかし、この気流は翼面上の後方に向かって最終的に飛行速度まで減速するため、音速以下に戻るところで[[衝撃波]]が発生して抵抗の急増や飛行性の急変を起こす{{sfn|久世|2006|p=115}}{{sfn|李家|2011|p=120}}。巡航状態におけるリア・ローディング翼型の圧力分布は、翼上面の前縁付近に負圧が最大になる地点(すなわち流速が最大になる地点)があるがそのピークは従来のピーキー翼型と比べて低く、翼表面の流速が音速を超えても抵抗が急増しない{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|Obert|2009|pp=252&ndash;253}}{{sfn|松田|1981b|pp=103&ndash;104}}。続く上面の圧力分布は翼弦長の中程までほぼ一定で、そこから後縁に向けて穏やかに低下する{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|Obert|2009|pp=252&ndash;253}}{{sfn|松田|1981b|pp=103&ndash;104}}。一方翼下面では、一旦負圧が上昇するが後半部のえぐりにより流れが減速されて上面との圧力差が確保されるため、翼弦上の後方で多くの揚力を得ることができる{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。この翼型の特性は、1968年に[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) が開発したスーパークリティカル翼型と基本的に同じであるが、翼の設計を行った[[ホーカー・シドレー]]社は、NASAとは独立にリア・ローディング翼型の開発に至ったとしてスーパークリティカル翼型の一種とは認めていない{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。リア・ローディング翼型は衝撃波の発生を遅らせ揚力係数を増加できることから、後退角と翼厚比を同じくした場合に従来の翼型よりも高速で飛行できる{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。しかし、欧州域内を結ぶ短中距離機として開発されたA300では高い巡航速度は不要とされ、前述の通り後退角を減らし翼厚比を大きくする設計がなされた{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。主翼の空力設計が優れていたことが、A300が成功した要素の一つとも言われる{{sfn|谷川|2016|loc=位置No.1027/1772}}。
 
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=== 飛行システム ===
[[Fileファイル:Airbus A300B2-103, Novespace (CNES) AN1993670.jpg|thumb|{{仮リンク|ノヴァスペース|fr|Novespace}}社が運用したA300 ZERO-Gのコックピット。同機はA300B2をベースとした。]]
A300第1世代の操縦システムは機械式で計器類も機械電気式である{{sfn|青木|2010|p=66}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。運航に必要な操縦士は[[機長]]、[[副操縦士]]、[[航空機関士]]の3人であり、A300第1世代はエアバスの旅客機で唯一の3人乗務機となったが、後に航空機関士を除く2名でも運航可能なFFCC(後述)と呼ばれるコックピット仕様が開発された{{sfn|EASA|2014|p=26}}{{sfn|青木|2010|pp=66, 73}}<ref group="注釈" name=crew/>。
 
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=== 客室・貨物室 ===
[[Fileファイル:American Airlines A300 Main Cabin (3486604260).jpg|thumb|left|アメリカン航空による運航当時のA300の客室内。]]
A300の胴体は中央付近の床面を境として上層に客室、下層に貨物室が配置されている<ref name=300B-manual-C2p10p16/>。キャビンは常用圧力差が8.25[[重量ポンド毎平方インチ]](約570[[ヘクトパスカル]])に[[与圧]]され、エンジンまたはAPUから得られる高圧空気を温度調整してキャビンに送られる{{sfn|松田|1981b|pp=107&ndash;109}}。
 
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=== A300B1 ===
[[Fileファイル:Airbus A300B1, Transeuropean Airlines JP7675833.jpg|thumb|{{仮リンク|トランス・ヨーロピアン・エアウェイズ|en|Trans European Airways}}により運航されたA300B1。]]
A300で最初に製造されたモデルで1972年10月28日に初飛行し、1974年11月12日に型式証明を取得した{{sfn|松田|1981a|p=56}}{{sfn|EASA|2014|p=8}}。A300B2が開発されるとそちらに注文が集中したため、製造されたA300B1は1号機と2号機のみである{{sfn|藤田|2001b|p=54}}{{sfn|粂|2007|p=28}}。1号機はエアバス・インダストリーが所有し、1974年8月まで各種試験に用いられてその後は展示機となった{{sfn|藤田|2001b|p=54}}{{sfn|青木|2010|p=66}}。2号機はリースされて{{仮リンク|トランス・ヨーロピアン・エアウェイズ|en|Trans European Airways}}によって商業運航に用いられ、[[1990年]]11月に引退した{{sfn|藤田|2001b|p=54}}{{sfn|青木|2010|p=66}}。
 
=== A300B2 ===
==== A300B2-100 ====
[[Fileファイル:Airbus A300B2-101, Air France AN1917942.jpg|thumb|[[エールフランス]]運航当時のA300B2。同社の要請によりA300Bは胴体を2.65メートル延長し、その後の標準となった。]]
エールフランスの意向を受けてA300B1の胴体を2.65メートル延長し、単一クラスでの標準座席数を281席としたタイプである{{sfn|松田|1981a|p=56}}{{sfn|藤田|2001b|p=54}}。最初の機体は通算3号機で1973年6月28日に初飛行した{{sfn|藤田|2001b|p=54}}。1974年3月15日、フランスおよびドイツの航空当局から[[型式証明]]が交付された{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}。1974年5月11日にエールフランスに引き渡され、その月の23日に初就航した{{sfn|藤田|2001b|p=54}}。
 
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==== A300B2-200 ====
[[Fileファイル:South African Airways Airbus A300 KvW.jpg|thumb|南アフリカ航空はA300B2Kの最初の発注者となった。]]
当初はA300B2Kと呼ばれていたが、1978年4月の型式名の整理によりA300B2-200に変更された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。主翼前縁の翼根部にA300B4と同じクルーガー・フラップを装備することで、高地や高温地域での離着陸性能を向上させたタイプである{{sfn|粂|2007|pp=28&ndash;29}}。A300B2Kでは、空力的な特徴に加えて強力なブレーキを備え、[[ナローボディ機]]の[[マクドネル・ダグラス DC-9|DC-9]]や727よりも短い滑走路から離陸でき、着陸も727と同等の滑走路の使用が可能であり、2,000メートルの滑走路でも余裕のある離着陸性能を持っていた{{sfn|渡邊|1981a|p=7}}。
 
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==== A300B2-300 ====
[[Fileファイル:SAS Airbus A300 Soderstrom-3.jpg|thumb|[[スカンジナビア航空]]のみが運航したA300-300。]]
A300B2-200の最大離陸重量を増加し、短距離区間を頻繁に離着陸するような路線に適した機材として開発された{{sfn|粂|2007|p=29}}{{sfn|EASA|2014|p=13}}。A300シリーズでP&W製JT9Dエンジンを採用した最初の機体となった{{sfn|粂|2007|p=29}}。
通算79号機がA300B2-300の初号機となり、1979年4月28日に初飛行、1980年1月4日に型式証明を取得した{{sfn|青木|2010|p=67}}{{sfn|EASA|2014|p=13}}。当型式を採用したのはスカンジナビア航空のみであり4機が生産された{{sfn|粂|2007|p=29}}{{sfn|佐藤|2001}}。
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=== A300C4 ===
[[Fileファイル:Airbus A300C4-203, Hapag-Lloyd JP5981659.jpg|thumb|[[ハパックロイド]]運航時のA300C4-200。]]
A300B4をベースに開発された貨客転換型で{{sfn|松田|1981a|p=60}}、正式な型式名はA300C4-200である{{sfn|EASA|2014|p=20}}。メインデッキ(客席部分)に貨物を搭載できるよう左舷前方に幅3.58メートル、高さ2.57メートルの貨物扉を設置し、床面強化とメインデッキへの煙探知器の追加を行い、内装も貨物向きに変更している{{sfn|松田|1981a|p=60}}。メインデッキに貨物を搭載するときは、座席のかわりに貨物積載装置を取り付け、前方に9Gに耐えられるバリヤーネットを張ってコックピットを保護する{{sfn|松田|1981a|p=60}}。メインデッキの貨物室容積は173 - 179立方メートルであり、客室内装を残したままで88×125インチ(2.23×3.17メートル)の貨物パレットを13枚、96×125インチ(2.44×3.17メートル)の貨物パレットでは12枚を収容可能である{{sfn|松田|1981a|p=60}}。旅客機として運用する場合の座席数は281席で、繁忙期は旅客機として、閑散期は貨物機または貨客混載機といった運用が可能である{{sfn|松田|1981a|p=60}}。貨物用から旅客用へは24時間で転換できる{{sfn|松田|1981a|p=60}}。
 
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=== A300F4 ===
[[Fileファイル:Airbus A300F4-203, MNG Airlines JP6146101.jpg|thumb|[[トルコ]]の貨物航空会社{{仮リンク|MNG航空|en|MNG Airlines}}による運航当時のA300F4-203。胴体前方("M"がペイントされている辺り)に貨物扉がある。]]
A300C4と同様にメインデッキに貨物を搭載可能とした貨物専用型であり{{sfn|青木|2010|p=69}}、正式名称はA300F4-203である{{sfn|EASA|2014|p=22}}。エアバス・インダストリーでは早くからA300の貨物型を提案していたが、第1世代では新造機での受注はなく全て旅客型またはA300C4からの改造により製造された{{sfn|藤田|2001b|p=57}}{{sfn|松田|1981a|p=61}}{{sfn|佐藤|2001}}。A300F4の初号機は通算277号機で、A300C4-200として1983年9月29日に初飛行していた機体を改造し、1986年6月6日の型式証明取得後に大韓航空に引き渡されたものである{{sfn|青木|2010|p=69}}{{sfn|EASA|2014|p=22}}。この改造はイギリスのBAeによって行われた{{sfn|藤田|2001b|p=57}}。A300-600シリーズでも純貨物型も提案され、こちらは新造機での受注もあった{{sfn|藤田|2001b|p=57}}(詳細は、[[エアバスA300-600|A300-600]]を参照)。
 
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=== 日本での運航 ===
[[Fileファイル:JA8464 A300B2K-3C JAS Japan Air System NGO 08JUL01 (6880865540).jpg|thumb|日本エアシステム運航当時のA300B2K]]
日本の航空会社では東亜国内航空(後の[[日本エアシステム]])と[[佐川急便]]グループの[[ギャラクシーエアラインズ]]がA300を採用した{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=186&ndash;187}}{{sfn|粂|2007|p=30}}<ref name=diamond>{{Citation |title=News&Analysis 佐川急便、上場準備への焦りか 貨物航空撤退で負った多大な代償 |journal=週刊ダイヤモンド |publisher=ダイヤモンド社 |year=2008 |month=09 |volume=96 |number=36 |pages=14&ndash;16}}</ref>。東亜国内航空は日本エアシステム時代から日本航空との統合後まで含めて、A300B2Kを9機、A300B4を8機、A300-600Rを22機と延べ39機を運航した{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=186&ndash;187}}{{sfn|粂|2007|p=30}}。ギャラクシーエアラインズはA300-600Rの貨物型を2機運航した<ref name=diamond/><ref name=WAC2008/>。そのほか、大韓航空やタイ国際航空、フィリピン航空、中国の航空会社などが日本への国際便にA300を用いた{{sfn|青木|2010|pp=140&ndash;153}}。また、パンアメリカン航空はアジア路線にA300を投入し日本へも乗り入れていた{{sfn|青木|2010|pp=140&ndash;153}}。
 
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その後、日本エアシステムは、輸送力の強化と国際線へも就航できる機材としてA300-600Rの導入を決め、1991年4月に最初の機体を受領した{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=71&ndash;72}}。この時のA300-600Rは第1世代の後継というより機材増強の側面が強く、第1世代は主に国内線、A300-600はアジア地域への国際線の強化に振り向けられた{{sfn|『JAL JET STORY』|p=72}}。日本エアシステムは東亜国内航空時代からA300の定時出発率99.5パーセント以上を維持し、エアバスから最優秀運航者として2度表彰された{{sfn|『JAL JET STORY』|p=160}}。
 
[[Fileファイル:JA8566-JAL-A300-600R.JPG|thumb|日本エアシステムは日本航空との統合し、引き継がれたA300-600Rは日本航空の新塗装に塗り替えられた。]]
日本エアシステムが[[日本航空]]と経営統合した後もA300は引き継がれたが、第1世代機は2002年から引退が始まり、2006年3月31日に運航を終了した{{sfn|粂|2007|p=31}}。第1世代は予め引退が計画されていたため統合後もレインボーカラー塗装で運用された{{sfn|粂|2007|p=31}}。一方のA300-600Rは新しい日本航空の塗装に塗り替えられ国内線で運航された{{sfn|粂|2007|p=31}}。2008年の[[リーマン・ショック]]をきっかけに日本航空は経営難に陥り、再建策の一環として機種整理を行いA300-600Rも引退することとなった<ref>{{Citation |和書 |last=戸崎 |first=肇 |title=再上場JAL、破綻から再生に至る道のり |date=2012-09-19 |url=http://www.nippon.com/ja/currents/d00051/ |accessdate=2015-10-21}}</ref>。当初の引退予定は2011年3月だったが、その月の11日に発生した[[東日本大震災]]を受けて被災した東北への輸送力増強に充てられたことで引退は一旦延期され、5月31日の青森発羽田行きの便をもって運航を終えた<ref>{{Cite news |title=なじみの翼、20年間ありがとう 退役2カ月延期、震災復興支援に活躍 /青森県 |date=2011-06-02 |newspaper=朝日新聞 朝刊 |page=27}}</ref><ref>{{Cite news |title=羽田と地方空港を結ぶ路線を中心に約20年間活躍した(窓)|date=2011-06-01 |newspaper=日本経済新聞 朝刊 |page=39}}</ref>。
 
[[Fileファイル:070429.JA01GX.A300-600RF.JPG|thumb|[[ギャラクシーエアラインズ]]が運航したA300-600R貨物型改造機。]]
ギャラクシーエアラインズは2005年5月に佐川急便が設立した貨物専門航空会社で、A300-600Rの中古機を改造した貨物機を導入し、翌年10月に羽田と[[北九州空港|北九州]]ならびに[[那覇空港]]間で運航を開始した<ref name=nikkei-20080805>{{Cite news |和書 |title=佐川急便グループの貨物航空会社、自社専用機きょう離陸――若佐社長に聞く |date=2006-10-31 |newspaper=日経産業新聞 |page=27}}</ref><ref>{{Cite news |title=佐川、貨物航空から撤退へ、上場にらみ2年で「見切り」、空陸一貫、燃料高で転換 |date=2008-08-05 |newspaper=日本経済新聞 朝刊 |page=13}}</ref>。2007年4月には新造機で2機目を導入し、[[新千歳空港|新千歳]]と羽田ならびに[[関西国際空港]]間でも就航も開始した<ref name=nikkei-20080805/>{{sfn|青木|2010|p=156}}。しかし、燃料費高騰や機材の不具合により運航・整備コストがかさみ、当初計画より大幅な赤字となり2008年8月に事業停止と清算を決定し、同年10月に全路線を廃止した<ref name=nikkei-20080805/><ref>{{Cite news |title=佐川系航空運送事業、国交省、廃止届を受理 |date=2008-10-07 |newspaper=日経産業新聞 |page=18}}</ref>。
 
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| colspan="4" | 144&nbsp;[[立方メートル|m{{sup|3}}]]<ref name=300B-manual-C2.1.1p3/><ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B/>
| メインデッキ: {{nowrap|173 - 179}}&nbsp;m{{sup|3}}<br />床下貨物室: 158&nbsp;m{{sup|3}}<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
| メインデッキ: 285&nbsp;m{{sup|3}}<br />床下貨物室: 158&nbsp;m{{sup|3}}<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
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! 全長
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! エンジン (×2)
| [[ゼネラル・エレクトリック CF6|GE CF6-50A]]{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| colspan="2" | GE CF6-50C{{sfn|藤田|2001b|p=57}}<br />[[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|P&W JT9D-59A]]{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| colspan="4" | GE CF6-50C2{{sfn|藤田|2001b|p=57}}<br />P&W JT9D-59A{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
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<!--! 推力 (×2)
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{{Featured article}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:えあはすA300}}
[[Category:エアバスの旅客機]]