「小笠原貞孚」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2017年2月}}
 
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 小笠原 貞孚
| 画像 = Ogasawara Sadazane.jpg
| 画像サイズ = 200px
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| 官位 = 従五位下、[[信濃国|信濃]]守
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家茂]]→[[徳川慶喜|慶喜]]
| 主君 =
| 藩 = [[播磨国|播磨]][[安志藩]]主
| 氏族 = [[小笠原氏]]
| 父母 = 父:[[小笠原忠幹|小笠原貞幹]](のちの小笠原忠幹)
| 兄弟 = '''貞孚'''、[[小笠原忠忱|忠忱]]
| 妻 = [[正室]]'''[[松平光則|戸田光則]]の娘'''
| 子 = [[養子]]:''[[小笠原長丕|長丕]]''
| 特記事項 =
}}
'''小笠原 貞孚'''(おがさわら さだざね / さだちか)は、[[播磨国|播磨]][[安志藩]]の第7代(最後)の[[藩主]]。忠脩系[[小笠原氏|小笠原家]]12代。
 
'''小笠原 貞孚'''(おがさわら さだざね / さだちか)は、[[播磨国|播磨]][[安志藩]]の第7代(最後)の藩主。忠脩系[[小笠原氏|小笠原家]]12代。
 
== 生涯 ==
嘉永3年(1850年)11月4日、第6代[[]]主・[[小笠原忠幹|小笠原貞幹]]の[[長男]]として生まれる。[[万延]]元年([[1860年]])11月6日、父貞幹(忠幹と改名)が本家[[豊前国|豊前]][[小倉藩]]を継いだため、[[嫡男]]である貞孚が代わって安志藩主となる。
 
[[幕末]]期には本家とともに[[元治]]元年([[1864年]])の[[第1次長州征伐]]や[[慶応]]2年([[1866年]])の[[第2次長州征伐]]に参加している。第2次長州征伐では、[[小笠原忠忱]]、[[小笠原貞正]]らとともに[[長州藩]]と戦うものの、敗れて[[肥後国|肥後]]にまで撤退した。
 
慶応4年(1868年)1月17日、新政府に対し、[[病気]]のために重臣を上洛させることを願い、2月21日、[[重臣]]を上洛させる。同年4月26日、貞孚が上洛する。同年閏4月11日、従五位下信濃守に叙任する。明治2年([[1869年]])6月24日、[[版籍奉還]]で[[藩知事]]となる。明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で免官となった。明治17年([[1884年]])に[[子爵]]を授けられた。明治38年(1905年)6月3日、安志で死去した。[[享年]]56。墓所は[[東京都]][[練馬区]]桜台の円満山[[広徳寺]]。
 
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