「楠木正成」の版間の差分

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=== 挙兵以前 ===
[[元亨]]2年([[1322年]])、正成は得宗・[[北条高時]]の命により、[[摂津国]]の要衝[[淀川]]河口に居する[[渡辺党]]を討ち、[[紀伊国]][[安田庄司]][[湯浅氏]]を殺害し、南[[大和]]の[[越智氏 (大和国)|越智氏]]を撃滅している<ref>新井・48頁</ref>。
 
この一連の状況は『[[高野春秋編年輯録]]』に詳しい<ref>新井・48頁</ref>。渡辺党を討った正成は[[高野山]]領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した<ref>新井・49頁</ref>。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国[[阿弖河荘]](阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる<ref>新井・49頁</ref>。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた<ref>新井・48頁</ref><ref name=aminokotob/>。