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| result = ハプスブルク家の勝利
| combatant1 = {{flagicon|Kingdom of France}} [[フランス王国]]
| combatant2 = {{flagicon2|Habsburg Monarchy}} [[ハプスブルク君主国]]
| commander1 = {{flagicon|Kingdom of France}} {{仮リンク|フランソワ・デュ・フランクトー (コワニー公)|label=コワニー公フランソワ・デュ・フランクトー|en|François de Franquetot de Coigny}}
| commander2 = {{flagicon2|Habsburg Monarchy}} [[フリードリヒ・ハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフ]]
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| casualties2 = 戦死45<br />負傷93
}}
'''クラウゼンの戦い'''(クラウゼンのたたかい、{{lang-ende|BattleGefecht of Clausen}}または{{lang|en|Battle ofbei Klausen}})は[[ポーランド継承戦争]]中の[[1735年]][[10月25日]]、[[トリーア大司教|トリーア選帝侯領]]の{{仮リンク|クラウゼン (ドイツ)|en|Klausen, Germany|label=クラウゼン}}で行われた戦闘。{{仮リンク|フランソワ・デュ・フランクトー|en|François de Franquetot de Coigny}}率いる[[フランス王国|フランス]]軍が[[フリードリヒ・ハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフ]]率いる[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍を攻撃したが敗北し、[[ポーランド継承戦争]]における最後の大規模な戦闘となった。
 
== 背景 ==
{{Main|ポーランド継承戦争}}
1734年の[[ラインラント]]戦役の結果、[[フランス王国|フランス]]は[[ライン川]]西岸を[[マインツ]]まで占領し、一方[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク家]](オーストリア)の軍勢は東岸で守備を強化した。1734年11月から、両国は中立国の[[グレートブリテン王国|イギリス]]と[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の仲介で平和交渉をはじめた。交渉の最中、戦闘は1735年に主に北イタリアで再開、フランスに味方した[[スペイン]]がさらなる侵攻を進めた。ラインラントでは{{仮リンク|コワニー公フランソワ・デュ・フランクトー|en|François de Franquetot de Coigny}}元帥率いるフランス軍が冬営を終わらせ、春と夏の間により攻撃的な態勢を整えたが、老将[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|オイゲン公]]率いるハプスブルク家の軍勢の守備を挑むことには後ろ向きであった。
 
1735年8月、{{仮リンク|ピョートル・ラシ|en|Peter Lacy}}率いる[[ロシア帝国|ロシア]]軍1万が到着し、オーストリア軍に加勢したが、これはロシア軍がはじめてライン川まで進軍した瞬間であった。オイゲン公は9月に平和交渉に加わるべく[[ウィーン]]に召還され、代わりに[[ヴュルテンベルク公]][[カール・アレクサンダー (ヴュルテンベルク公)|カール・アレクサンダー]]が指揮を執った。オーストリア軍右翼を率いる[[フリードリヒ・ハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフ]]{{仮リンク|帝国伯爵|en|Imperial Count}}はカール・アレクサンダーの許可を受け、フランス軍左翼に攻撃を仕掛け、[[トリーア]]に押し返して[[マース川]]と[[モーゼル川]]の間の領地を得ようとした。
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[[Category:1735年の戦闘]]
[[Category:フランスの戦闘]]
[[Category:オーハプトリアブルク帝国の戦闘]]
[[Category:ポーランド継承戦争の戦闘]]
[[Category:1735年のドイツ]]
[[Category:ラインラント=プファルツの歴史]]