「ハンガリー社会主義労働者党」の版間の差分

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これらの改革は1973年に[[ソビエト連邦]]の圧力によって後退を余儀なくされ、ニエルシュらも解任・左遷されたが、その処遇は「[[プラハの春]]」後に改革派党員を追放した[[チェコスロバキア共産党]]の「正常化」に比べれば穏やかなものであった<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P49-50</ref>。[[西側諸国|西側]]への旅行も他の東側諸国に比べると比較的自由であり、1980年には380万人が西側へ旅行している<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P50</ref>。[[検閲]]も比較的緩やかであり、閣僚の指名は形式的ながら[[中央委員会]][[政治局]]の決定だけでなく[[大衆組織]]「愛国人民戦線」と協議をして決定するなどの改革が行われた<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P50</ref>。
 
1988年にカーダールが引退し、穏健改革派の[[グロース・カーロイ]]が書記長に就任した。同時に政治局にはニェルシュが復帰し、[[ネーメト・ミクローシュ (政治家)|ネーメト・ミクローシュ]](1988年から首相)、[[ポジュガイ・イムレ]]らの改革派も政治局入りした。これ以降ポジュガイら改革派によってソ連の[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]政権による[[ペレストロイカ]]の流れを受けて、政治改革が急速に進められた。[[1989年]]2月には[[ハンガリー民主化運動|民主化]]の一環として[[党の指導性]]の放棄、党と政府の分離を決定し、5月には[[オーストリア]]との国境にあった[[鉄条網]]の撤去などの改革・開放を行った。6月にはハンガリー動乱で処刑された[[ナジ・イムレ]]元首相の名誉回復と改葬を行った。さらに6月23-24日の中央委員会で[[複数政党制]]の導入を決定して一党独裁を放棄し、1989年10月の党大会では「党の国家政党としての歴史は終わった」と宣言して「'''[[ハンガリー社会党]]'''」へ改名し、1990年以降は[[欧州統合]]を推進する[[社会民主主義]]政党へと転換した<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P51-73</ref>。その一方で社会党への改組に反対した保守・中間派の一部は、新たに同名の「ハンガリー社会主義労働者党」を結成した。この党は1990年の選挙で議席を失い以降議席獲得に失敗している。その後1993年に[[赤い星]]の使用が禁じられたことに伴い労働者党と党名変更しそれまで使用していたシンボルマークも放棄された。2005年には共産主義労働者党と改称するものの2013年にはこれに加えて「共産主義」の党名の使用が禁じられ再び労働者党に党名を戻している
 
== 歴代指導者 ==
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== 脚注 ==
<references />
 
== 外部リンク ==
[http://mszp.hu/ ハンガリー社会党公式サイト]
[https://munkaspart.hu/ ハンガリー労働者党公式サイト]
 
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