「相楽総三」の版間の差分

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四男であったが、兄らが養子に出たり事故死したりしたため、小島家の家督を継ぐことになった。国学と兵学を学び、若くして私塾を開いて多くの門人を抱えていたが、23歳の時に尊王攘夷活動に身を投じる。小島家から5000両もの資金を与えられて関東方面の各[[義勇軍]]の組織化に尽力し、元治元年([[1864年]])の[[天狗党の乱]]にも参戦した。
 
その後、[[西郷隆盛]]、[[大久保利通]]らと交流を持ち、慶応3年([[1867年]])、西郷の命を受けて、江戸近辺の[[倒幕]]運動に加わった。運動とはいえ総三らがやったことは、掠奪・暴行などの蛮行の繰り返しであった。これは[[大政奉還]]によって[[徳川家]]を武力討伐するため[[大義名分]]を失った[[薩長]]が、江戸行動幕臣達を挑発し、戦端を開く口実指針するなっお定書きにあった。西郷の策攻撃対象成功し、屯所「幕府襲撃された[[庄内藩]]が、薩摩藩邸を焼き討ちす助け([[江戸薩摩藩邸の焼討事件]])。これが、[[鳥羽・伏見の戦い]]のきっかけ商人なった。なお、当時の西郷の手紙では薩摩焼き討ちの結果に狼狽している様が残っており浪人西郷は浪を掌握し切れていの妨げにかったとの説もあ。総三を始め商人する28名は辛くも藩邸幕府役人、唐物脱出し扱う商人[[品川宿|品川]]沖に停泊する薩摩藩金蔵をもつ富商」運搬船[[翔凰丸]]四種乗って[[紀伊国]]に逃れた及んだ
 
慶応3年([[1867年]])10月、討幕の密勅を根拠として、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。相楽たちは関東3か所で挙兵する計画を立てていたが、その後、[[大政奉還]]が実現したことにより密勅は取消された。
慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると赤報隊を組織して[[東山道]]軍先鋒として活躍。新政府軍に[[年貢半減令]]の建白書を提出して認められたため、同令を掲げて京都から江戸を目指して進軍するが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は[[下諏訪宿]]で捕縛される。
 
密勅の取消により[[薩摩藩]]は江戸薩摩藩邸宛てに関東での'''攪乱工作の停止'''を指示し、大政奉還の翌日にも「'''鎮静'''」するように念を押している。にもかかわらず、相楽たちは指示をことごとく無視して[[流山]]と萩野山中で挙兵し、いずれも鎮圧されている。
 
相楽たちの軍資金は[[豪商]]を襲って得たものであった。相楽たちの挙兵は旧幕府方を刺激し、[[庄内藩]]と旧幕府軍による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|江戸薩摩藩邸焼き討ち事件]]に発展している<ref name="gakken">『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』 [[Gakken]] p.76~77</ref>。
 
これが、[[鳥羽・伏見の戦い]]のきっかけとなった。なお、当時の西郷の手紙では薩摩藩邸の焼き討ちの結果に狼狽している様が残っており、西郷は浪士隊の行動を掌握し切れていなかった。
 
総三を始めとする28名は辛くも藩邸を脱出し、[[品川宿|品川]]沖に停泊する薩摩藩の運搬船[[翔凰丸]]に乗って[[紀伊国]]に逃れた。
 
江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると、近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令された。
 
しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している。
 
年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken"/>。
 
相楽は指示に従わず独立行動を続行し、[[碓氷峠]]を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「'''偽官軍'''」と見なされることになる<ref name="gakken"/>。
 
東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた[[小諸藩]]など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた<ref name="gakken"/>。
 
小諸藩から赤報隊による勝手な金穀の徴収や、略奪行為を通報されたことにより、出頭した相楽は[[下諏訪宿]]で捕縛される。<ref name="gakken"/>。
 
同年3月、下諏訪で処刑。享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した。後に総三の首級は地元出身の[[国学者]]で総三とも親交があった[[飯田武郷]]の手によって盗み出され、秘かに葬られた。