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'''平 教盛'''(たいら の のりもり)は、[[平安時代]]末期の[[平氏|平家]]一門の[[武将]]。[[平忠盛]]の四男。[[平清盛]]の異母弟。母は[[藤原家隆_(左京大夫)|藤原家隆]]の娘([[待賢門院]]に仕えた[[女房]])。[[平通盛]]、[[平教経]]の父。
 
[[保元の乱]]、[[平治の乱]]で兄の清盛に従って戦う。邸宅が[[六波羅]]の総門にあったことから'''門脇殿'''と通称され、さらに[[平氏政権]]での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。[[鹿ケ谷の陰謀]]事件では娘婿の[[藤原成経]]が罪に問われたため、その赦免に奔走した。[[治承・寿永の乱]]では主に後方の守りについた。[[一ノ谷の戦い]]で[[嫡男]]の通盛を始め子息を失う。[[壇ノ浦の戦い]]の敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。
 
== 生涯 ==
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平家は[[摂津国]][[福原京|福原]]まで進出し、教盛父子は[[西国]]の反乱勢力の鎮圧にあたり、特に次男の教経は華々しく戦った。寿永3年([[1184年]])2月4日、福原で清盛の法要が営まれ、[[除目]]が行われ(平家は[[安徳天皇]]と[[三種の神器]]を擁しているので[[除目]]を行う権利がある)、教盛は[[正二位]][[大納言]]に叙されるが、これを辞退した。その日、源範頼・義経の鎌倉軍が京を進発していた。
 
7日に行われた福原を巡る[[一ノ谷の戦い]]で平家は惨敗し、嫡男の通盛をはじめ、子の教経、業盛みな討ち死にした(教経については生存説あり)。さらに、身重だった通盛の妻の[[小宰相]]も夫の後を追って入水自殺してしまう。子たちを失った教盛の身辺は心細いものになった。
 
その後、平家は[[屋島の戦い]]に敗れ、[[長門国]][[彦島]]に逃れた。そして寿永4年([[1185年]])3月、[[壇ノ浦の戦い]]が行われ、平家は力尽きて敗北。[[平時子|二位尼]](清盛の妻)と安徳天皇をはじめ、平家の一門は次々と入水した。教盛は兄の経盛とともに[[鎧]]の上に[[碇]]をつなげて兄弟手を取りあって海に沈んだ。享年58。
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== 関連項目 ==
* [[順徳天皇]] - 曾孫
* [[堀川通具]] - 外孫
* [[門脇卓爾]] - 末裔とされる
 
 
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