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'''バス'''(bus)は、大量の[[旅客輸送]]を目的に設計された[[乗り物]]である。
 
最も一般的なバスは{{仮リンク|1階建てバス|en|Single-deck bus}}の{{仮リンク|リジッド・バス|en|Rigid bus}}であり、より大規模な積載人数の{{仮リンク|2階建てバス|en|Double-decker bus}}および[[連節バス]]、より小規模な積載人数の{{仮リンク|ミディバス|en|Midibus}}および[[マイクロバス]]、長距離サービスには{{仮リンク|コーチ (バス)|en|Coach (bus)}}が用いられる。
 
都市交通バスおよび都市間バスのように、多くの種類のバスが[[運賃]]を設定する。一方、小学校および中学校の[[スクールバス]]又は中等後教育キャンパスの[[シャトルバス]]は運賃を設定しない。多くの法域において、[[運転士|バスの運転士]]になるには通常の[[運転免許]]に加え、特別な免許が要件とされる。
 
== 歴史 ==
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=== 日本でのバスの歴史 ===
日本で最初にバス事業を営む計画がなされたのは[[1902年]]([[明治]]35年)兵庫県三田(さんだ) - 有馬間において路線に使用する自動車も輸入されたがバス事業を実現しなかったようである。
日本ではバス事業が実際に実施されたのは、[[1903年]](明治36年)に広島市郊外の三篠村 - 可部町の約15 [[キロメートル|km]]区間で運行したのが、日本初の乗り合いバスだといわてている{{sfn|浅井建爾|2001|p=246}}。同じ年の3月から7月まで、大阪市天王寺公園で内国勧業博覧会が開催された際その会期中梅田 - 千日前間にロコモービル号乗合自動車が運転されたのと、同年京都で堀川 - 中立売 - 七条駅(現在の京都駅)前および祇園石段下間にバス運転営業をしている{{sfn|浅井建爾|2001|p=246}}。やがて1905年(明治38年)6月有馬自動車株式会社が三田(さんだ)から有馬間の運転を開始し、また同年に大阪自動車株式会社が日本橋(にっぽんばし) - 堺間(後に梅田に変更)バス運転を開始した。各地に続々とバス営業会社が興ったが1904年(明治37年)から1909年(明治42年)までの間にその出願路線数47に及んだ。1904年(明治37年)にはわずか15台に過ぎなかったものが1909年(明治42年)には135台に達していた。
 
しかしながら当時のバス事業は車両およびガソリンの高騰やら税金の過重の他道路の不良、運転手の未熟さも手伝ってか道合馬車、人力車業者の反対して会社や営業所、停車中のバスまでに襲撃する輩やありもしない噂や風説や妄言など業者の受ける風当りは厳しい環境だったようである。当時の大阪では通行人の危険防止のためバス前方を昼間は赤旗を振って夜は提灯を振って先払いをして走るという珍しい光景が見られるような状態だった。1919年(大正8年)東京市街乗合自動車の上野 - 新橋間 (5.6km) が開業した。これが東京市(東京都区部)の乗合自動車の始まりである。また電車との連絡運輸として1913年(大正2年)京王電気軌道株式会社が当時の郊外電車笹塚 - 調布間の運転と共に新宿 - 笹塚間と調布 - 府中を自動車による連絡運輸を開いたのがその始めであった模様である。バス路線創業期はバス路線取締令としては各府県ごとに「乗合自動車営業取締規則」があるだけで日本国中に取り締まる法律が無かった。-->
 
== 車両 ==