「アンナ・マリア・ファン・シュルマン」の版間の差分

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| caption = [[ヤン・リーフェンス]]画<br>『アンナ・マリア・ファン・シュルマンの肖像』(1649)(1649年)<br>[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]、ロンドン
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| birthdate = {{birth date|1607|11|5}}
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'''アンナ・マリア・ファン・シュルマン''' ('''Anna(Anna Maria van Schurman''', [[1607年]]11月5日 - [[1678年]]5月4日か14日) は、[[ドイツ]]生まれの[[オランダ]]の[[画家]]、[[版画]]家、[[詩人]]、[[哲学者]]。[[17世紀]]当時の女性としては非常に高い教育を受け、芸術、音楽、文学の分野で秀でており、[[ラテン語]]、[[ギリシャ語]]、[[ヘブライ語]]、[[アラビア語]]、[[シリア語]]、[[アラム語]]、[[エチオピア語]]を含む14カ国を解した。
 
== 生涯 ==
[[画像:AnnaMaria vanSchurman.jpg|thumb|left|200px|1632年の自画像]]
アンナ・マリア・ファン・シュルマンは[[ケルン]]の裕福な家庭に生まれた。4歳の時にすでに字が読めたという<ref>[http://www.dbnl.org/tekst/houb005groo01_01/houb005groo01_01_0149.htm Anna Maria Schuurmans biography] in ''De groote schouburgh der Nederlantsche konstschilders en schilderessen'' (1718) by [[アルノルト・ホウブラーケン|Arnold Houbraken]], courtesy of the [[:w:{{enlink|Digital library for Dutch literature]]|p=off|s=off}}</ref>
 
1613年に父親が亡くなると、母親と2人のおばとともに[[ユトレヒト]]に移る。1630年代、 [[:w:Magdalena van de Passe{{仮リンク|マグダレナ・フォン・デ・パッセ]]|en|Magdalena van de Passe}}より[[エングレーヴィング]]を習う<ref>[http://www.rkd.nl/rkddb/dispatcher.aspx?action=search&database=ChoiceArtists&search=priref=71389 Anna Maria van Schurman] in the [[:w:{{enlink|Netherlands Institute for Art History|RKD]]|p=off|s=off}}</ref> 1636年、女性としては初めて[[ユトレヒト大学]]で学ぶ。しかし当時女性が大学で学ぶことは許可されていなかったため、講義を聴く際はカーテンの後ろに座り、他の学生から見えないようにしていた。彼女アンナ・マリアは文学や科学全般、また特に[[神学]]に興味を持っていた。アンナ・マリア彼女は法学の学位を取得して卒業した。
 
彼女アンナ・マリアは徐々に芸術分野に視野を広げていく。[[ガラス]][[ダイヤモンド]]を使って繊細なエングレーヴィングを制作している。次第にロウ型、象牙や木材の彫刻に熟達していく。また、油彩も手掛けたが[[肖像画]]が主であった。繊細な切り絵も残っている。
 
1640年代、501650年代には女性にも教育の機会を与えることの重要性を説いた著作( ''Whether the Study of Letters Is Fitting for a Christian Woman?'')を残している。
 
1664年、アンナ・マリアは元[[イエズス会]]士で[[プロテスタント]]に改宗していた [[{{仮リンク|ジャン・ド・ラバディ]]|en|Jean de Labadie}}に出会う。彼は[[:w:Labadism]]{{仮リンク|ラバディスト|label=ラバディスム|en|Labadists}}を確立した人物であったが、彼女はジャンの考えに傾倒していき、主要な援助者となる。この派は[[アムステルダム]]に移るが歓迎されず、[[ハンブルク=アルトナ]]に再度移り、ジャン・ド・ラバディはそこで1674年に亡くなった。彼らは再び[[フリースラント州]][[:w:{{仮リンク|ウィウェルト|en|Wieuwerd]]}}に移り、アンナ・マリアはそこで1678年に亡くなった。
 
== 参照 ==
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== 外部リンク ==
{{commonscommonscat|Category:Anna Maria van Schurman}}
*[http://annamariavanschurman.org/ Anna Maria van Schurman]
*[http://www.brooklynmuseum.org/eascfa/dinner_party/place_settings/anna_van_schurman.php Anna van Schurman] [[ブルックリン美術館]]
 
{{デフォルトソート:ふあんしゆるまん あんな まりあ}}
[[Category:オランダの画家]]
[[Category:オランダの詩人]]
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[[Category:17世紀の哲学者]]
[[Category:女性の哲学者]]
[[Category:オランダ共和国の人物]]
[[Category:フェミニズム史]]
[[Category:ケルン出身の人物]]
[[Category:1607年生]]
[[Category:1678年没]]
[[Category:フェミニズム史]]