「内村鑑三」の版間の差分

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=== 教員時代 ===
在米中に[[新潟県]]の[[北越学館]]への教頭としての招聘が一度あったが内村は断り、帰国後に新島襄の仲介で契約が成立し、明治21年(1888年)6月6日に館主・[[加藤勝弥]]と[[約定書]]を交わした。新島によると独立心の強い内村は新潟行きに難色を示し、正教頭ではなく、仮教頭で赴任した<ref>北越学館で、1年間の契約と共に、内村は伝道活動に携わらないことが約定書で決められていた。北越学館のキリスト教のみを教え、日本のことを教えない点と、外国伝道会社の援助を得ることによって自主独立が損なわれている点について、信仰上の束縛を内村は嫌ったと思われる。[[#鈴木1984|鈴木(1984)]]、43頁</ref>。
北越学館で1年間勤務した。北越学館では[[エレミヤ書]]を講義し、土曜日には講演会を開き、[[マルティン・ルター|ルター]]について講義した。就任一ヶ月後に、宣教師の運営方針に反発する見解を表明、宣教師たちも内村の下で働くことを拒否し辞職を通告して、学生を巻き込んでの学館紛争になった。調停のために、新島襄は[[横井時雄]]を派遣するが効果はなく[[成瀬仁蔵]]は内村と激しく対立して、意見書を著し辞職を迫った。孤立した内村は赴任後わずか4ヶ月で辞職した。
 
{{main|北越学館事件}}