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=== 番付を書く ===
江戸時代中期の[[元禄]]年間([[1688年|1688]]-[[1703年]])には、[[歌舞伎]]、[[寄席]]、相撲の看板はいずれも[[御家流]]([[青蓮院]]流、[[尊円流]]ともいい[[尊円法親王]]の[[書法]]を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。[[1757年]]([[宝暦]]7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、[[寛政]]年間([[1789年|1789]]-[[1800年]])には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、[[幕末]]から[[明治]]にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎([[勘亭流]])や寄席([[江戸文字|寄席文字]])の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の[[版元]]根岸家(江戸時代の[[三河屋]])にちなみ「'''根岸流'''」と呼ばれ、現在では主に「[[根岸流 (書風)|相撲字]]」と呼ばれる独特な[[書体]]で書かれる。「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり(現在の番付では「高」と「髙」は完全に区別して書かれている)、バランスをとるために〈[[木部 (部首)|木へん]]〉や〈[[山部|山へん]]〉をかんむりのように書く(松→枩、峰→峯などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある)ような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。横綱が一番大きく書かれ、以下大関、関脇と地位が下がるにつれ小さく(細く)書かれるようになっていき、序ノ口の力士になるともはや肉眼で見ることが困難なことから、俗に「虫眼鏡」と呼ばれるほどである。現在番付を書いているのは戦後7人目となる三役格行司[[木村容堂 (3代)|3代木村容堂]]で、2007年11月場所から前任の[[木村庄之助 (36代)|10代式守勘太夫(後の36代木村庄之助)]]より受け継いでいる。
 
==== 戦後の番付を書いてきた行司(番付を書いた時の行司名)====