「バングラデシュ」の版間の差分

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[[15世紀]]末には[[ヨーロッパ]]の貿易商人が訪れるようになり、[[18世紀]]末に[[イギリス]]の[[イギリス東インド会社|東インド会社]]により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド全域に拡大した。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な[[飢饉]]に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物やコメの輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された<ref>臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明ほか 28-29ページ</ref>。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。
 
やがて[[インド]]の他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を意図し、1905年に[[ベンガル分割令]]を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割したからイスラムことで、{{仮リンク|英領東ベンガルおよびアッサム|en|Eastern Bengal and Assam}}が確立された(今日[[バングラデシュ]]およびインド東北部の[[アッサム]]、[[メラヤ州|メガラヤ州]]、[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]に相当)。1906年にはカでムスリム連盟の創立大会が開かれたこの措置は両教徒の反発を招き1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。

当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会でベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万〜300万人の死者を出した<ref>中里成章「新しい国の古い歴史」(参考文献『バングラデシュを知るための60章』[第2版]22ページ</ref>。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。
 
=== インド領東ベンガル ===