削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
'''北島 忠治'''('''きたじま ちゅうじ'''、[[1901年]][[2月23日]] - [[1996年]][[5月28日]])は、[[日本]]の[[ラグビー]]監督。[[新潟県]][[上越市]][[安塚区]]安塚町出身。[[1929年]]から死去するまで67年にわたり[[明治大学ラグビー部]]監督を務めた。北島の作り上げた明大ラグビー部十訓のもと 「'''前へ'''」 と言い続けた北島の言葉は 明治の代名詞 になった。通称'''忠さん'''、'''北島御大'''、'''北島先生'''。
 
== 来歴・人物 ==
7行目:
元は[[相撲]]部出身で、[[神楽坂]]の[[筑土八幡神社]]でよく練習をしていた。ラグビーの経験はそれまでなく、大学2年生の時にメンバーが足りないとの理由で助っ人を頼まれたことがきっかけで、相撲部からラグビー部に転部。1925年に明治大学専門部を卒業し、卒業してすぐに、明治大学法学部に再入学。[[1926年]] - [[1928年]]まで明治大学のスクラムセンター(今の[[フッカー]])として活躍。1928年12月8日に神宮競技場で行われた伝統の[[早明戦]]には明治大学の主将として出場している。
 
1929年、明治大学法学部卒業。卒業と同時に監督就任。[[早稲田大学ラグビー蹴球部|早大ラグビー部]]を率いた[[大西鐡之祐]]とは全く対照的なラグビー理論を掲げていたため比較し続けられた。
 
1944年7月に大船の富士飛行機に体育課長として迎えられたが3ヶ月で退職、故郷の新潟へ戻った。戦後すぐに上京、復員してくる部員たちが食糧に困らないように自らグラウンド周辺に作物を植え、翌1945年9月には4500kgものサツマイモを収穫した。
13行目:
明治OB達は皆、口を揃えて「厳しくも温かい人柄」であったと伝えている。また監督が幅をきかせていた他の大学と違い、グラウンド上では大抵学生の判断に任せていたが、手抜きは許さなかった。また見つけた場合は即刻グラウンドから退場を命じた。北島がラグビーを通じて目指したものは人格陶冶、社会に恥じない人間を育てることであった。それを示す例として、ラグビー部寮が火災で焼失した際、「家は建てられるが部を再建することは困難である」と新宿の自宅を売って再建したという。
 
北島は1996年に95歳で大往生し、「重戦車・明治ラグビー」のために生き、没した生涯であった。30代前半で禁酒、しかし、1日100本の愛煙家の生涯でもあった。チームがトライを取るたび、また取られるたびにテレビ画面に映る北島は、泰然とたばこをふかす姿であった。それがまた北島の魅力を醸し出していた。また、北島の臨終の言葉は「明治、前へ…」であったことを北島の妻が明かした。
 
[[1986年]]には[[吉川英治文化賞]]を、1991年には文部省からスポーツ功労者表彰を受け北島の墓所は[[八王子市]]の常修寺にある
なお、北島は監督在任中1300名の部員を育てた。1996年の早明戦では、北島の喪を意味する黒襟のジャージで選手は戦い接戦の末、早稲田ゴール前でスクラム認定トライで逆転勝ちをした。
 
注:「ノーサイド - 91歳の青春・北島忠治監督物語」(1992年1月9日放送/[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]])北島役:[[ハナ肇]]では、「めいじ、まいえ!」と発声していた。